02/02/12

●午前中に歯医者の予約を入れていたので、起きがけで、朝っぱらがら、歯茎に針を挿入されたり、ガリガリと葉を削られたりする。雑居ビルの3階にある歯医者のガラス戸から、晴れ渡って真っ青な空が見える。向いのビルの屋上に、真っ黒な点のように1羽のカラスがとまっていた。痲酔が効きづらい体質らしく、再度奥の歯茎に針を射し入れる。神経に直接針を通されるような痛み。治療が終わると、イスに押し付けられていた後頭部の髪が、寝癖のような乱れて立っている。
●佐賀町の食料ビルにあるRICE GALLERYで小林正人・展。小林正人はぼくが現代の作家のなかでは最も尊敬し、影響を受けている画家。展示してある作品は、その場で制作され、しかも木枠はきちんと組まれてなく崩れていて、麻布もダラッと垂れ下がったままで、壁に架けることも出来ずにただ立て掛けられているので、一見インスタレーションと呼ぶばれる形式のように見えるかもしれないのだが、作品=表現が「場」に依存していない、という意味でインスタレーションとははっきりと違う。しかし、ならば何故ギャラリーで制作されなければならないのか、制作するだけならまだしも、何故そこいらに絵具のチューブなどが散乱していて、作品が「ここ」で出来たのだという痕跡を残して置かなければならないのか、という疑問が即座に出てくるだろう。これは非常に矛盾しているのだが、この作品は「ここ」で作られなければならないし、「ここ」で作られたという痕跡(つまりそれは「今」は不在の画家の身体の痕跡な訳なのだが)も残されてなければならないのだが、にもかかわらず「表現」は「この場」や「画家の身体」には依存していなくて、ある自律した抽象的な次元で成立しているのだ。それは「作品」というものが、制作の場や過程とは切り離された次元を獲得することで初めて「表現」になり得るのだ、ということである。作品は、ある特定の場所で作り始められるしかないし、ある特定の身体=画家によって作り出されるしかないのだけど、それが、ある「表現」を獲得した時に、固有の場所からも固有の身体からも浮かび上がって別のものになる。だから小林正人の作品がインスタレーションでは決してないのは、その考え方や形式や制作のシステムなどによるものではなく、出来上がった作品が「結果」としてそうではないことを主張しているからなのだ。
小林正人は画家であり、その作品はとりあえずは「絵画」と言って良いだろうと思う。それらの表面は大きく波打ち、弛んでいるし、フレームを作るはずの木枠は歪み傾いでいる。恐らく壁に架けると自らの形態を支えることが出来ずに、重さによって形態が崩れてしまうと思われ、だから壁に立て掛けられ地面に置かれている。多くの作品はフレームの下辺の部分がなくて、上から垂直に落ちてきた麻布はそのまま地面にぶつかり、折れ曲がって、長過ぎるズボンの裾のようにたわんでいる。ある作品などは、長過ぎた部分の麻布は、絵具が置かれている訳でもなく、カットされて処理される訳でもなく、ただ無造作に丸められて放置してありさえする。何故そのようなものを絵画と呼ぶのか。絵画とは、平面上に置かれた線であり色彩であり絵具という物質であり、それらによって浮かび上がるイメージのことではないのか。しかし、小林正人の作品はあくまで「平面」であって決して立体的ではない。ただ、その「平面」という次元が、歪み、波打ち、たわみ、折れ曲がり、捻れ、裏返ったりしているだけなのだ。だからその作品には決して「裏側」はあり得ない(勿論「物質」としては裏側があるのだが、「作品」としては裏側などあり得ない)し、リテラルな意味では、ほとんど空間を含んでいない。ここで「ほとんど」と言うのは、普通の絵画=平面だと、横から見ると「1」のようにまっすぐなのだけど、小林正人の作品は「)」のように少し弛んでいて、例えば直立している人体に比べて、やや前かがみになっているような人体が、その前面(フトコロ)に僅かな空間を招き入れている、と言うような感じなのだ。絵画が必ずしも、いつも平らで滑らかな面にばかり描かれている訳ではないことは誰でも知っているだろう。例えば洞窟に描かれた壁画などは、やはり「)」のように彎曲し、しかもゴツゴツと波打った面に描かれている訳だが、それてもそれは絵であり平面でありイメージであって、誰もそれを立体的なものだとは思わないはずなのだ。
小林正人の作品が絵画であることは間違いないにしても、やはりそれが「特異な絵画」であることは明らかであるだろう。例えばセザンヌのある種の作品では、異質なもの、共存不可能だと思えるようなものたちを、あまりに強引に同一平面上で接続させているため、画面がギシギシと音をたてて振幅し、いまにもフレームが歪み、表面が波打って反り返って裏返ってしまいそうに感じられるのだけど、小林正人の絵画では、それがまさに「実際に」起こってしまったとでも言う感じなのだ。最近の小林正人の作品には、画面のなかのどこか一点が、まるでそこだけ別の次元と繋がっていて、別の場所から異質な光が射してくるかのような、特別に「明るい」場所があり、その「明るさ」によって作品が成立しているようなことろがある。考えてみれば、画面にある絶対的な中心があり、その中心との関係で画面のあらゆる部分が決定されているような絵というのは、考えられる限り最も幼稚というか、最も面白くない絵である訳なのだが、小林正人の作品は、この一点からくる光の強さによって画面が安定するのではなくて、絵画という枠組みを支える形態、つまりフレームや表面の滑らかさなどさえもが、それによって破壊されてしまった、という感じがあるのだ。(だからこの特異な形式は、形式主義的に外柄から考えられた形式ではなく、描くという行為によって、描かれている内容の力によって、不可避的にこのように場所に連れてこられた、ということのはずなのだ。)小林正人は、多分にキリスト教的な雰囲気が濃厚な環境で育った作家なのだが、だからと言って画面上の「ある光」をキリスト教的な超越性と安易に結びつけて解釈するとしたら、それは最悪の退屈な結果しか現れないだろう。今回展示されている作品でも、黄色い、フレームが三角につくられている作品などは、ふと、やや高い場所に浮遊していて異質な明るさに満たされている聖人のような存在があって、その存在が天から降り注いでくる光に祝福されている、というような美しいビジョンに見えてしまう瞬間もある。しかしそのイメージはあくまで、木枠の露呈した壊れて歪んだフレームに貼り付いている、歪み、波打ち、たわみ、折れ曲がり、捻れ、裏返ったりしている麻布の上に、擦り込むように載せられた色、のたくるように這い回るタッチ、何も感じることが出来ないのではないかと思えるくらいに厚く堅くなってしまった老人の肌のように載せられている絵具、などによって実現されているイメージであることを忘れてはならないのだ。(勿論、実物を「観ている時」にはそれを忘れることなど出来ない。)ここまで、ゆがみ、ひずみ、崩壊し、ほとんど死に瀕していると思えるくらいに変形された絵画の身体によってさえ(いや、だからこそと言うべきか)、このようなイメージを産み出すことが出来ることに驚くべきなのだ。絵画という身体がここまで変形されているということは、これを描いている画家の身体も、ほとんど人間のものではないというくらいに変形されているはずなのだ。画家は、絵画そのものと一体化するように、関節を外し、組み替え、歪ませ、波立たせ、たわませ、折り曲げ、捩り、裏返し、ながら制作しているのだろう。そのようにして作られた作品は、観者の身体をも無傷のままでは置かないのも当然のことだ。
●RICE GALLERYでの展示は16日の土曜日まで。