昼ちかくまで寝ていた。昼過ぎから、たまっていた洗濯。洗濯の合間に食事。
この1週間は、やはりなんとなくせわしなかった。約1週間ぶりで、ぼんやりと空を見上げる。空もぼんやりしている。もう、冬の透明感はないのか。
駅前のスーパーまで買い物。意識的にゆっくりと歩く。地面の感触を感じながら、一歩、一歩、足を出してゆく。こういうのも、展覧会後のリハビリの一環。
買い物も、いつもは、必要なものだけを、ささっと、選んで手早くすませるのだけど、今日は、普段見もしない棚まで覗いてみたり、買いもしない野菜や果物をひとつひとつ手にとって眺めてみたり。ペットなんていないのに、ペット・フードをみてみたり。日曜の午後のスーパーは、買い物慣れしてないおとーさんが、奥さんの後ろにとろとろついて歩いていたりして、普段なら邪魔くさいとか思うのだけど、そんなのを眺めたり。
その後、経堂のギャルリ・伝まで、加藤陽子・展を観にゆく。
経堂の駅を降りたら、いつもとは反対側に出てしまった。これから先の予定もないし、急ぐ用事も無いので、反対方向へ向かって歩きだす。しばらく商店街を歩き(擦れ違う人が、みんな鯛焼き食べながら歩いてた)、ころあいを見計らって脇道へ入ると、上手い工合に迷う事ができた。しばらくその辺りをうろうろと迷って歩く。
ぼくは迷うのが好きだ。時間に余裕さえあれば、細い路地から、べつの脇道へと、いつまでも際限なく、方向を失ったままただただ歩き続けてしまう。こういう目的も見通しもない迷いながらの彷徨を好む、といった回りくどさは、ぼくの行動のあらゆる部分に顔をだしてしまっているようだ。目的地への距離を縮めるための歩行、は、まどろっこしくてめんどくさいくせに、目的地がなければ、いつまでも歩いていられる。以前ある人から『3年もかけてやっと大学に入るような人(ぼくは3浪している)と、現役で、すぱっと入る人とでは、「 物の理解の仕方の仕組み 」が違うんだよ』と言われたことがあった。まあ、要はとろいってことなんだけど。(危機意識がない、とも言う。しかし危機意識なんて言葉は大嫌いだ。)
この辺りは、狭い空間に隙間なくびっしりと建物が建っているのに、ある古びたマンションの前に、明らかに不自然で邪魔な場所に、大きな樹が1本立っていた。この樹があるせいで、建物が妙に捩じれた不自然な形になっているし、防犯の点から考えても、この樹を登ればマンションの2階、3階部分のベランダに容易に侵入出来てしまうので、マズいと思うのだけど、きっと、それでも切ることのできない、『なにか』があるのだろう。無責任な散歩者としては、こういう空間の歪みはとても面白い。
真直ぐ歩けば、10分とかからない駅からギャルリ・伝までの道のりに、2時間以上もかかってしまう。
最近の加藤陽子の作品を観ていつも思うのは、『大胆だなあ』ということだ。この大胆さを、人によっては、感情的・情緒的だと言ったり、不安定だと感じたり、女性的と形容したりするのだろうけど、そういう人はこの大胆さの本質を理解出来ていないのではないか、と思う。まあ、確かに不安定だし感情的だったりするのだろうけど。
ギャルリ・伝に置いてあった『BT』のピカソ特集を観ていて、そのうちの何枚かの図版がとても良いので驚いた。ピカソがこんなに良い画家だとは知らなかった。そういえば、ぼくが初めて『絵画空間』というものを意識したのは、高校生のときたまたま画集で観た、ピカソの描いた、ベラスケスの『待女たち』のヴァリアントからだったことを思い出した。ピカソによるベラスケスによって、絵画が、《絵画にしか表現できない領域》を持っているということを知ったのだった。ピカソ展は是非観に行かなくては。