だらだら昼ごろまで寝てる。まだ疲れがとれない。
昨日の続きで黒沢清の『カリスマ』についてちょっと。
『カリスマ』という映画が今までの黒沢作品のなかで特に抽象的だと感じさせるのは、『森』という場所の抽象性にあると思う。実際には富士山麓の森で撮影されたそうだけど、それが実在する特定の何処かにある森ではなくて、何処でもなく、何処であってもよい『森』として描かれている。これは黒沢としては特異なことで、これまでの映画の舞台は大抵、何処という特定はされていないものの、それが現代の東京近郊の何処かであることは明らかであって、黒沢本人も『自分は東京の映画作家だから、自分の映画には混濁した東京の風景が映っているはずである』という主旨の発言をしている。
『カリスマ』における森という場所の抽象性は、考えてみれば、ハリウッドで製作される映画が、スタジオに組まれた壮大なセットと、デジタル処理によって獲得するような、場所の抽象性に近いのかもしれない。設定そのものも、ある抗争で混乱している地域に、外部から主人公がふらっとやってくる訳だから、これはもうあからさまにB級アクション物のそれだと言ってよい。『カリスマ』は黒沢の最もハリウッド的なフィルムだと言えるのだろうか。
確かに主役以外の登場人物は皆、謎めいてはいるものの、彼らはただ忠実に自分に与えられた役割を果たそうとするだけだ。植林業者やプラントハンターは、自分の利益に忠実に行動するだけだし、植物学者は、森全体を救うという使命に燃えている。狂信的な青年はひたすらカリスマの木を守ろうとするし、おまけにお決まりの謎の美女まで登場する。だとすると、『カリスマ』は、たんにハリウッドのジャンル物の黒沢流の換骨奪胎でしかないというのだろうか。(それはそれで好きなのだけど)
ある程度は、そうだと言えるだろう。『カリスマ』は、かなり面白いものではあっても、ある所までは、ジャンル物に対する彼の独自に屈折した(しかし、あまりにも屈折し過ぎ)距離感でつくられた、あえて言えばポストモダン風の建築物でしかないだろう。しかし『カリスマ』はそのまますんなりと終わってはくれない。事態は、2本目のカリスマの木の出現とともに混乱の度合いを増す。
主人公の元刑事は、カリスマの木があっさりと焼かれてしまった後、何でもないただの枯れ木を、カリスマとして世話しはじめる。それと同時に、『カリスマ』の世界はジャンル物の映画としての拠り所を一気に失ってしまう。それぞれの登場人物たちは、自らの役割を見失ってどんどん迷走しはじめる。これ以降『カリスマ』の世界には、ジャンルの規則も映画の規則も通用しない、ただ複数の人々が勝手に動き出すことで起こる、いくつもの力の流れがあるだけだ、という空間になってしまう。ここで黒沢的な暴力が画面を走り抜け、役割から解放され自由になった人物たちが、一体どうしたらよいのか分らず、混乱して右往左往する、リアルで、真に政治的な空間が出現するのだ。そしてこの、どうもこうもない拠り所のない空間が、次回作である『大いなる幻影』へと直接繋がっている、と思う。
(黒沢清はとても暴力的な作家だと思う。例えばタランティーノの映画で、どんなに人が銃で撃たれようが、血しぶきが舞い上がろうが、誰も驚きはしないだろうけど、黒沢の映画では、人が棒のようもので殴られるだけで、心臓が縮みあがってしまうほどの暴力性を感じてしまうのだ。というか、黒沢の映画では、風が吹くだけで、何やらすさんだ暴力的な気配が、一面にただよってしまう。)
カリスマの木を焼き払った後、植物学者とその妹が部屋でくつろぐ、俯瞰のフィックスで撮られたシーンがやけに印象に残っている。黒沢の名人芸ともいえる、フィックスのフレームを人物が出たり入ったりすることで構築される、独自の長廻しのシーン。1本目の木から、2本目の木へと、移行するまでのほんの小休止のようなゆったりとした場面。しかし、今後の混乱と暴力を預言するかのように、少しだけ開けられた窓からの風で、カーテンが無気味に大きくはためいているのだった。
夕方から、買い物。『ブエナ・ビスタ・・・』関係のCDと、キューバものをカンで何枚か。あと、ブラジルものも、カンで。それと、聞いたこともな名前のジャズ・ピアニストのアルバムを試聴で聞いて気になって買ってしまう。これも、ブラジルっぽいリズムのやつ。どれも『あまりシリアスにならない系』の音楽。
7時50分から、飯田橋ギンレイホールジム・ジャームッシュの『ゴースト・ドック』。
黒沢の映画が、外側からの暴力的な風で、ぼこぼこに穴の空いたすさんだリアルさで勝負するものだとしたら、ジム・ジャームッシュの映画は、とことん自閉することで、その内部の濃度を高めてゆくことで勝負しているもののように感じる。意図的に選ばれた『停滞する時空』の濃度。彼の映画には、半分死にかけたような、幽霊しか出て来ない。彼らは、状況に対してアクティブであることから降りていて、ただ、あてどなくさまようばかりだ。ぼくは基本的に、ジム・ジャームッシュのこのような姿勢に、賛同したいと考える。前作『デッド・マン』は、それにかなりの程度成功していたように思う。
でも、今回のはイマイチ。出てくる年寄りが、皆素晴らしい、とか、女の子の登場のさせ方が無茶苦茶うまい、とかいっても、ジム・ジャームッシュなんだから、そのくらい出来てあたりまえ。簡単に言っちゃえば、無駄なエピソードが多くて時間がたるんでいるのと、プロットの組み立てが甘過ぎる、という印象。お洒落なミニマリストであることから脱皮して、あえて下世話であることを選択しているのだから、その辺はきちっとやらないと、センスの良さだけでは誤摩化せないと思う。いままで禁欲していたせいなのか、安易に感傷に流れすぎる、という印象もある。(でも、ジム・ジャームッシュも『たのしい川べ』が好きなのだ、ということを知って、ちょっと嬉しかった。)