横浜へ。神奈川県民ホールで、神奈川アート・アニュアル。川崎で、かわさきIBM市民文化ギャラリー、さとう陽子・展。
横浜までの電車のなかで、黒沢清『カリスマ』の第2稿シナリオを読む。『カリスマ』は10年ちかく前からの企画で、92年に出版された黒沢の『映像のカリスマ』という本に、もう既に『カリスマ』の企画について書かれている。この『カリスマ』第2稿というのはおそらく92年に、サンダンス・インスティテュートスカラシップを受けた時のものだと思われる。完成された映画とは、大きく異なっている。やはりこれは92年当時の黒沢のもので、『地獄の警備員』の延長線上にあるようなものとなっている。
現在の黒沢に比べると、かなり楽天的なジャンル物のシナリオで、ほとんど『用心棒』みたいな話。完成された映画と最も大きく違っている点は、2本目のカリスマの木が登場しないことと、ラストが希望に満ちたものになっていること。カリスマを守っている男が、ファゴットを吹いてカリスマに聴かせているシーンがあったり、車椅子の黒幕のような老人が登場したりで、初期黒沢の匂いのする細部が残っていたりもする。
99年に完成された映画『カリスマ』の複雑な難解さ(微妙さ)は、現在の黒沢と、92年当時の黒沢とが、妙な工合で入り混じっている、というところにも原因があるのかもしれない。
(余談だけど、『カリスマ』のなかでテーマ音楽のように何度か反復されている曲は、中世のアラブ音楽の『カンティガ』という曲にそっくりだと思うのだけど、本ネタは、やはりそこらへんにあるのだろうか。)
神奈川アート・アニュアルは、正直言ってあまり期待していなかったのだけど、意外に面白かった。というか、いろいろと考えさせられることが多かった。いわゆる美術作品のような『物質の表情の繊細さ』を持っていない(追求していない)作品の方が、繊細に質感の処理をして『美術作品』にしようとしているものより、作品として興味深く観ることができた。
例えば、今井紀彰という人の作品は、一見CGかなにかで曼陀羅模様をつくった作品のように見えるのだけど、近寄って見ると、プリントされたスナップ風の写真を何枚も何枚もびっしりと張り合わせてつくったものだと分る。その張り合わせ方も、とても不器用できれいに仕上がっているとは言い難いし、一枚の作品を、一つの平面として成立させているようなパースペクティブが存在しない。昔デビット・ホックニーがやっていたジョイナー写真を、絵画を全く理解していない人がつくった、という感じ。まあ、普通に考えれば、ひどく下手糞な作品ということになるのだろうけど、ぼくにはこの展覧会で一番面白いと思えた。
作品の近くに、それぞれのスナップ(これらも写真としては恐ろしく下手糞だ)が撮影されたシチュエーションの説明が、まるで小学生の夏休みの宿題の自由研究の発表みたいな形で掲示してある。そこに書かれた手書きの文字も、小学生並みに下手。これをわざとやっているとは、到底思えない。多分この人は、ビジュアル的なセンスはまるでなく、近代絵画の空間性というものも、全く理解していないのだろうと思う。
でも、そこには決して鳥瞰的にものを見る事のない人の眼差しが、はっきりと刻みこまれているように感じた。超越的な視点を仮構することなく、自分に向かって来る雑多で様々な情報を、雑多なまま提示することに、かなりの度合いで成功している。リフレクション、という言葉をこの作家は書き付けている。ここには確かに、現代の現実のリアルな反映があるように思う。しかしここには、世界のリフレクションはあっても、世界に対するインターフェイスというものが全く欠けているように感じる。ここまでで満足してしまっていいのか。ここまでだと、美術は黒沢清の足元にも及ばない、ということになってしまう。とは言っても、かなり面白い作品であることは確か。(決して、好み、ではないけど)
あと、阿部佳明という人の作品が、まあ、これはかなり安易なものではあるのだけど、ちょっと面白かった。単純に120本のドラム缶が並ぶのは凄いし、ぎしぎしと軋む垂木を踏み締めてその奥まで行くと、内側から紫に輝くドラム缶のなかに水が張ってあり、金魚が泳いでいる、というイメージには、ちょっとだけクラッときてしまった。天井には、水を通した光の反映がゆらゆらと揺れているし。(でも、こんな安直な作品にクラッとしてしまうのは、ヤバいことなのかも・・・)
それらに比べ、いかにも美術作品のように繊細な表情でつくられた作品はみんな、どうしようもなくみすぼらしいものに見えてしまった。これは一体、どういうことを意味しているのだろうか。特に平面の作品は悲惨。形骸化、という言葉しか浮かばない。うーん。
これは、作品に対する感想というより、今のぼくの気分のようなものを表明してるに過ぎない、と最初に断わってから言うのだけど、今回の鵜飼さんの作品は、ゴムをが無い方がよかったのではないか、と、ふと、思ってしまった。中途半端に表現的な表情をもってしまうゴムを使うよりは、ただ、ぶっきらぼうにフレームだけを展示した方が、鵜飼さんのやりたい事がはっきりと見えるのではないか、と。でも、鵜飼さんとしては、あまりにすっきりと見せてしまうことに対する不快感のようなものが強くあるのかもしれないのだけど。
関内の周辺には、古くて使えないのだけど、壊すに壊せない、というような歴史的なごつい感じの建物が、大きな新しいビルに混じって点在していて、ふらふら歩いていてもとても面白い。錆びた鉄条網に囲まれた、雑草の生えた空き地。立体駐車場。古くて、封鎖されているデコラティブな建物の壁に、向いのガラス張りのビルに反射した光が当たっている。錆びたシャッターが閉まっている。神奈川県は、東京に比べて、地面がやけに平べったいという印象がある。
帰りの電車のなかで、中島敦山月記』『名人伝』『弟子』を読む。田中小実昌『バスにのって』トマス・ピンチョン『ヴァイン・ランド』購入。