昨日、聴かせてもらった、カン・テーファン、佐藤充彦、富樫雅彦のCD、『アジアン・スピリッツ』(ベタなタイトル)を捜しに、新宿タイムズスクエアのHMVへ。(そこで買ったそうだ)でも、なかった。考えてみれば、このテのものをそう何枚も入荷するはずはなく、誰かが買ってしまえばそれまで、ということだろう。また他で捜さなくては。
その後、テアトル新宿黒沢清『カリスマ』(2度目)と、そのまま続けてレイトショーの『発狂する唇』を観る。
『発狂する唇』は最悪。観なければよかった。悪趣味とかモンドとかエログロとかデタラメとか、やるんなら徹底的にやればいいのに、なんかいちいち『分かってやってるんですよ』という注釈が付いているような感じ。『ぼくっていつもこんなにバカばっかりやってて、面白い奴でしょ、ね、ね、ね。』と言いながらバカやっている奴みたいな。ぼくは基本的に、映画ならどんなにつまらないものでも、それなりに楽しんで観てしまうような甘っちょろい観客なのだけど、映画を観ていてこんなにもシラーッと引いてしまったのは久しぶり。生真面目な奴が、すごく無理してはしゃいでるのを見せられたような、嫌な気分になってしまった。高橋洋は一体どう考えているのだろうか。徹底して人を怖がらせようという映画では、なぜいけないの ? ぼくは、こういうものを面白がる人を、はっきりと軽蔑します。馬鹿じゃねえの。(『カリスマ』はガラガラだったのに、『発狂する唇』は結構混んでる、というのはどういうこと。)
昨日のナンセンスの話のつづきではないけど、ナンセンスの才能のない奴は、徹底して正攻法を貫くことでナンセンスに至るしかないのだ、ということを、自戒を含めて痛感させられた。というか、ナンセンスというのは、極端なまでに度を超えた生真面目さ、ってことでしかないでしょう。
と、悪口ばかり言っていながら、帰ってきて早速、主演の三輪ひとみ(三輪姉妹)のHPを見にいったりしてる。この人のこと、結構好きかもしれない。
『カリスマ』はやはり驚くべき作品だということを、改めて感じた。
これは明らかに、8?時代から現在までのクロサワの集大成であり、同時にそれ以上でもあるようなものだ。正直言うと、ぼくはこの作品には、どうしても納得いかない(批判的にならざるを得ない)部分が幾つかあるのだけど、それも含めて、この作品の大きさと雑多さ、懐の深さには驚嘆するしかない。『カリスマ』という企画が、すぐに実現されず、1999年まで持ち越されたことは、結果としてとても幸福なことだったのだ。
凄い作品というのは、客観的な作品の出来、不出来とか、作家性とかとは関係なく、その作品が、今、出現してしまったということが事件である、というような作品なのだと思う。『カリスマ』とはおそらくそういう作品なので、映画が好きだとか嫌いだとか、クロサワが好きだとか嫌いだとかとは関係なく、観ておかなくてはらない、観ておくべき、作品なのだとさえ、言ってしまいたくなる。(黒沢清本人としては、『カリスマ』が別に特別な作品だとは思っていないかもしれないし、ぼく自身も、クロサワファンとしての好みからすれば、『蜘蛛の瞳』や『ニンゲン合格』の方が「 好き 」だったりはする。でも、そういうことを一旦置いておいて、『カリスマ』という作品の発する複雑で不可解な記号を、そのヤバさまで含めて、しっかりと全身で受け止めなければいけないとも、強く感じる。)
『カリスマ』では、洞口依子が素晴らしいと言う人が多いけど、ぼくは、風吹ジュンの良さを特に指摘しておきたい。(洞口依子の良さは、明らかにアンナ・カリーナをレファランスとしている)2本目のカリスマの木が、役所広司の手によって爆破されたときにみせる、もうどうしたらよいか分らないという、よるべない表情の素晴らしさは、特筆されるべきだろう。この映画の後半、状況は錯綜し、本当にどうしたらよいか分らない状態になるのだけど、登場人物たちのなかで、このどうもこうもない状況を真正面から見ているのは、主役の役所広司以外では、この瞬間の風吹ジュンだけなのだ。厳しい状況が目の前にあるからといって、誰でもがその『厳しさ』を見ることができるという訳ではない。多くの人は、なるべくそれを見ないように努力さえする。そんななかで目の前のものをきちんと見るためには、優れた資質と強い意志が必要だろう。
『カリスマ』という凄い作品があるからといって、全ての人がその凄さを見ることができるとは限らない。ぼくにはその能力が十分にあるだろうか。