晴れ。花粉を巻き上げて、風がごうごうと吹き荒れる。(こればっかし)
咽が痛かったり、頭が痛かったりするのは、花粉のせいなのか、風邪ぎみなのか。身体が重く、だるいのは、体調を崩しているのか、ただ寝不足なだけなか。もう、何が何だか分らない状態。
電車のなかで読みかけて、そのままだった中島敦の『弟子』を始めから読み返す。孔子とその弟子、子路の話。孔子の高邁な思想に関する小説というより、その弟子子路を主役とした痛快悪漢小説という感じ。16の短い挿話からなる。4、50年代ハリウッドB級活劇みたいな、短いエピソードを無駄なく速いリズムで畳み込んで、一人の人物の生涯を90分で語り切ってしまう、というような作品。
あくまでも今ある現実のなかで、どのように行動するのが最良であるか、という倫理を実践しようとする孔子。彼の偉大さを理解し誰よりも敬愛しながらも、師と自分との間にある決定的な性質の違いを違和感として生涯感じつづける、どこか幼い理想主義的なところを捨てきれない子路。2人の出会いから、子路の死までを、史実と論語を巧みに折り込みながら語ってゆく。子路の愛すべきキャラクター、子路を通して浮かび上がる孔子の人物像、2人の微妙な距離感や違和感、論語からの引用をさりげなく効かせる巧みな配置。どちらかというとぼくは、細部の描写がだらだら、ずるずると続いてゆくような小説を好むという傾向があるのだけど、こういう、ピタッと決まった、知的な構築物のような小説を初めて面白いと思った。ぼくが今まで読んで知っていた小説的なエクリチュールの質とは、かなり違っている。要、再読。
Tくんと道元の話し。禅の公案に、ある男が座禅をしているところへ師がやって来て『何をしている』と問う。『座禅です』『座禅をすることで何をしようとしているのだ』『座禅をすることで、仏になることを目指しています』すると師は、傍らにあった瓦を石に擦りつけ始める。『何をなさっているのです』『瓦を磨いている』『瓦を磨いて何をしようとするのですか』『瓦を磨いて鏡にする』『いくら磨いても瓦は鏡にはなりません』『瓦を磨いて鏡にならないなら、何故、座禅をして仏になれるのか』と、いうのがあるらしい。
この公案を受けて道元は、大丈夫(立派な男)が瓦を磨くとしたら、誰も他人の力を借りないであろうから、瓦は鏡にはならない。しかし、孤独に瓦を磨く行為そのものが鏡となる。その、目にも止まらぬ速さ、と、書いているそうだ。(このへんの話は、スティーブ・レイシーが誰かと共演するとき、誰と共演しても、まわりと関係なく全く孤独に演奏している感じがする、これは一体どういう事なんだ、という話の流れから始まった。)
この公案そのものは大して面白いものではない。しかし道元はこの公案の意味をほとんど無視して、そこから『瓦を必死に磨いている』という行為だけを取り出す。決して鏡にはならないものを、鏡にすべく、ただひたすら孤独(独力)で磨きつづける。その行為そのものが既に、鏡、となっているのだ、という強引な意味のレヴェルの飛躍を行い、さらにそこに、その目にも止まらぬ速さ、という意味を取りかねる文を付け加える。道元の思想の深遠は知らないけど、ここにはほとんどナンセンスといっていい、思考の運動の輝きがあるように感じる。
多分、ナンセンスとは短絡のことなのだと思う。体系的な、合理的な思考の道筋とは、別の通路を通って思考が動いて(流れて)しまうこと。それに対する驚きと恐れ、その強さ、その強さに対して感じてしまう美的な感情。そしてこれらの事態に主体が対処できるとしたら、ただ笑うことだけしかないのだ。決して鏡にはならない瓦を磨きつづけることのナンセンスさを笑いつつ、それを続ける。その行為そのものが鏡となる。さらに笑いは増幅され、ついに、目にも止まらぬ速さにまで達する。
これはたんにヤマカンに過ぎないのだけど、イメージはナンセンスと深く関わっている。見る事は、それ(対象) が目の前にある、ということの意味の無さを肯定し、それに耐えることだろう。絵画、少なくとも近代絵画は、意味によってではなく、無意味の強さによって輝いているように思う。つまり、どれだけ笑えるか、ということが勝負。(本当かよ・・・)