08/01/09

●昨日読んだ『脱獄計画』(アドルフォ・ビオイ=カサレス)と同じ、サルヴァシオン群島の刑務所が舞台となっているので、スティーブ・マックィーンの出ている『パピヨン』のDVDを借りてきて観たのだけど、この映画では「孤島」という空間がほとんど生かされていなくて、どんな場所なのかという「感じ」はあまり分からなかった。「島に送られると一生出られない」とされる、その「島」と、島に送られる手前にある収容所との関係がよくわからない。マックィーンが、一体いつから「島」にいるのかが、ただ映画を観ているだけでは分からなくて(おそらく「独房」からが「島」なのだろうけど)、つまり、映画として、この物語が「島」を舞台にしたものだということがほとんど問題にされていなくて(この監督はそもそも「空間」にほとんど関心がないように思われた)、辛うじてラストだけが(とってつけたように)「島」であることが強調されているだけだった。
●『脱獄計画』には、二人の叔父(ピエール、アントワーヌ)がいて、二人の甥(グザヴィエ、アンリ)がいる。この一族の間には、塩田の権利をめぐるいざこざがあり、二人の甥の間には、イレーヌという女性をめぐる対立がある。つまりこの小説の語りは、二つの鏡像的なライバル関係の磁場のなかにある。一族の長としての権力をもつ兄ピエールに対して、弟アントワーヌは、アンリの追放について意義を申し立て、その帰還を要求する。つまり、アントワーヌはアンリの側について兄に抵抗しているようにみえる。しかし実は、アンリは塩田の一件について、アントワーヌの弱みを握って、それを隠したままで任地に赴いており、だからアントワーヌとしては、アンリに帰ってきて欲しくないのではないかと疑うことが出来る。(「弱みを握っている」からこそ、アンリはピエールにではなく、アントワーヌに帰還を要求する手紙を出すのではないか。)そしてこの点において、(イレーヌとのことでアンリに帰ってきて欲しくない)グザヴィエと利害が一致する。つまり、一見、ピエール-グザヴィエ対アントワーヌ-アンリという風にみえる鏡像的ライバル関係はめくらましで、アントワーヌとグザヴィエが組むことで、アントワーヌにとっては、兄ピエールに対して自己の責任を隠蔽出来るし、グザヴィエにとっては、イレーヌとの結婚を実現出来る、という利益が生じる。つまり、ピエールとアントワーヌ、グザヴィエとアンリ、という対立関係は実は同等のものではなく、アントワーヌはピエールに依存しているのであり、グザヴィエはアンリに対して不利な状況にある、のではないか、と「推測」できる。
以上の点を考えれば、アントワーヌによって書かれた手記(この「小説」そのもの)は、アントワーヌとグザヴィエが二人で共謀してアンリを殺害し、その事実を隠蔽するためにこそ書かれた、と「推測し得る」。(その事実を「誰に」対して隠蔽するのかと言えば、兄のピエールに対してであろう。)勿論これは、「推測し得る」ということでしかなく、確証はない。しかし、このように疑えてしまうことによって、この小説のあらゆる記述の細部が疑わしく、油断のならない不穏さを帯びることとなり、その切迫感が細部を粒立たせている。
だとすれば、この『脱獄計画』の世界で最も上位に位置し、「語り」を制御する磁場の中心にいるのはピエールであるということになる。そして、この小説にはもう一人のピエールが存在する。物語の磁場の中心にいて、その「謎」を背負っているカステル総督もまた、ピエールという名前をもっている。