このところ毎日つよい風。まあ、春は風がつよいものだろうけど、ここ数日の風は、冷たい北風。バス停のちかくの、マックやらドラッグストアやらの、旗というのか、のぼりというのか、が、バタバタと激しくはためいている。
日曜日のバス。すいたバスが広い道路をゆっくりと移動してゆく。ブーンという大型車の低いエンジン音というか振動と、大きな窓から入って来る太陽の光とで、いつの間にか、うとうととする。透明感のない、べったりマットな水色の空。
視線を遮る物がなにもない場所で、雲ひとつない空を見るとどうなるか。つまり視覚のなかに、像を結ぶ対象物がなにもなく、ただ青い色だけがあるとき、どう見えるのか。以前、それをちょっと試してみたことがある。目は、どうしても何かにピントを合わせようとするのだが、その対象がない。すると、眼球の表面を覆う、涙の層に貼り付いていると思われる、ホコリに焦点が合ってしまうのだ。水色の空を地として、眼球の上を涙の流れとともにゆっくりと移動してゆくホコリがみえるのだった。つまり、目は、何も見ないということができない、というか、何もない、空っぽな空間だけを見ることはできないのだ。
このとき、目のレンズは無理して不自然に近い物にピントを合わせているので、すごく疲れる。しばらくすると頭が痛くなった。
最近、多分ピカソ展を観てからだと思うのだけど、また絵を観るのがとても面白く思えてきた。単純に楽しく観られる。ちょっと前までは、絵なんてもううんざり、という感じだったのに。今日も古本屋を覗いて、古い『みづえ』のゴーキーが載っているやつを買ってしまった。ゴーキーはかなりちゃんとした画集を持っているのだけど、それに載っていないマイナーな作品が何点か載っていたから。画家の才能とか資質とかいうのは、どちらかというと『代表作』のようなものより、中途半端な、ちゃんと完成していないような作品の方により露にあらわれてしまう。(特にピカソなんかは、画集に載っているような『名作』は大抵つまんない作品であることが多い。)そういう作品は、観ていて面白いというだけでなく、その作家の可能性というか、学ぶべきものが、とても多く含まれている。
(確かに、ピカソやゴーキーを観ることはとても楽しいし、喜びではあるのだけど、自分がつくる作品に関しては、このような、視覚的な構築を信じているような作品は、ちょっとつくろうとは思えない。ぼくは今、ほとんど、視覚性というものを信じることができない。ぼくの作品に、物質的な構築性あっても、視覚的な構築性はほとんど希薄になってきている。フレームというものに対する考え方も、視覚的な意識とは別の場所で考えられている。フレームはむしろ時間に関わっている。にもかかわらず、ぼくのつくろうとしているの物質ではなくては絵画だし、それは近代絵画の視覚性や空間性に多くを負っているだろう。このへんの屈折というか、ねじれそれ自体が、ぼくにとってリアリティということなのだけど、それが作品として成功しているかどうかは、また別の話。)
夜、9時少し過ぎに、近所のレンタルビデオ店にいったら、いつになくガラガラだった。みんな家で『ビューティフルライフ』の最終回でも観ているのだろうか。