朝帰り。寝不足で、眠くて重たい身体を、無理して引きずって、通勤の人たちと同じざわざわとしたペースで、私鉄からJRへ乗り換える通路を足ばやに移動する。さっきまで、電車のなかで口をあけて、だらーっと寝ていたような人たちが、ホームについたとたん、鬼のような形相で、たったったっと早足で突進をはじめる。やっとのことでそれについてゆく。
家についたら、食事してすぐ寝る。でも、何か嫌な夢をみて、何度も目覚めてしまう。嫌な夢にもめげずに、何度も眠ろうとこころみるけど、結局2時間弱しか眠れず、宅急便で起こされたのをきっかけに、起きる事にした。
夕方から映画。4時50分から、シネマスクエアとうきゅうで、マニュエル・プラダルの『アデュー、ぼくたちの入江』。8時から、飯田橋ギンレイホールで、大島渚『御法度』。
映画が終わって、シネマスクエアとうきゅうから出てきたら、雨が強くふっていた。天気予報を無視して傘をもっていかなかったので、新宿駅につくころにはびしょぬれになった。このままでは風邪をひいてしまうので、『御法度』はまた今度にして、帰ってしまおうとも思ったのだけど、無理しても観てよかった。
『御法度』にはびっくりした。いい、いい、と聞いてはいたけど、ここまでいいとは。堂々としていて力強く、それでいて余裕があっていい感じに力が抜けている。誰が何と言おうと『マックス・モナムール』を支持しているぼくにとっては、自分の判断の正しさが証明されたようにも思えた。これは『戦メリ』の延長というより、断固『マックス』の延長にあるものだと主張したい。オーシマは本当に巨匠の域にまで達した。
松田龍平が、そんなにきれいじゃないとか、ボーッとしているとか、言う人もいるけど、それこそが大島の狙いなのだと思う。ハレーションをおこしてしまいそうなほどアクの強い豪華脇役陣のなかで、一人だけなんとなく冴えない松田龍平が、空白としての中心の位置にいるからこそ、この映画は成立しているのだ。事実、松田龍平の唇のクローズアップより、催洋一の唇のクローズアップの方が、ドキッとしてしまったりする。武田真治浅野忠信の素晴らしさが、なにものでもない松田龍平を両側から支えている。これで、松田まで際立ったものを主張していたら、映画は滅茶苦茶になってしまっていただろう。
それに、この映画を、セクシーなものとして見るのはピントがずれているように思う。これはあくまで、組織のなかでの人間同志の関係の力学のようなものを、ある程度システマティックに捉えた映画なのだ。システマティックではあっても、繊細さを極めている。この映画が、いわゆる男色に関するものであるのは、登場人物たちのほんのちよっとした動揺を繊細にすくいとり、それを映画全体を動かす程に増幅して波及させるためだろう。トミーズ雅の手を、松田龍平がぎゅっと握る、というだけでこんなにも画面を動揺させるのは、これが異性との関係だったら出来ないことだったと思う。(そういう意味では、田口トモロヲ松田龍平のモロの性交シーンが本当に必要だったかは、疑問だ。)
それから、語り口。堂々として軽妙。大島が、ここまでの軽妙さを獲得できたのは多分初めてのことなのだと思う。狂言まわし役のビートたけしの演技は決して軽妙とはいえないのだけど、演出が軽妙なのだ。冒頭のナレーションの使い方なんか、ほとんどNHKの大河ドラマみたいだし、字幕の使い方や『心内語』をナレーションとしてセリフに被せたりと、安易とギリギリの軽妙さは巨匠的名人芸と言っていいのではないか。それにこれもほとんど反則ワザなのだど、それぞれの登場人物の性質を、演技やエピソードで示すのではなく、『顔』だけでさっと表現してしまうのだ。このキャスティングはちょっとズルいよ、と思いながらも、納得させられてしまう。セリフ廻しも独自。武田真治は一貫して現代劇のような口調で喋るし、ビートたけしは普段は時代劇口調なのに、たまにふっと素にもどったような喋り方をする。まあ、これも反則ギリギリだけど。あと、大島渚の映画で、こんなに笑えるのも、初めてなのではないだろか。
(一般に、屋外でのロケーション撮影が苦手だと言われる大島渚だけど、武田真治ビートたけしが、水辺で語り合うシーンはすばらしかった。)
『アデュー、ぼくたちの入江』。南フランス、コートダジュール。ローティーンの少年少女のアブない性と青春の話し。少女は14歳。まだあどけない身体で米軍の兵士たちを挑発する。貧しいジプシーの少年は、盗みをくり返し、なんとか銃を手に入れようとする。少女は兵士たちとつき合うことで仲間たちから軽蔑され、そのうち兵士からも捨てられる。少年は無実の罪で投獄され、脱走する。そして2人は出会う。2人は浜辺をはしり、草原でじゃれあい、舟を盗んで無人島へ渡り、そして愛し合う。いかにもありがちなヨーロッパ映画
ベルトリッチとか、テシネとかだったら、思いっきり濃厚な、エロ&メロドラマとしてきっちりと構築しそうな話し。でもこの監督は何も考えず、ただシネスコサイズのカメラを振り回して、初期ヌーベルヴァーグ風の画面を撮るばかり。ほんとに何も考えていないのが、画面や編集から伝わってくる。
じゃあ、全くつまらないかと言えばそうでもない。ここには、南仏の光があるし、波の静かな入江の青い青い海があるし、森の斜面が、沼地の濁った水が、その波紋が、そこに浮かぶ舟が、集団的な喧噪と興奮と恍惚と暴力が、少年や少女のしなやかな肉体が、ジプシーの少年の野蛮な顔つきが、乾いた風と汗の臭いがある。ほんとに下らないバカ映画だけど、それらのものを観ているだけで、とてもつよい解放感が得られる。でも、こんなに開放的な南仏の光や海を、なんでこんな閉じた暗闇のなかで感じなくてはならないのか、と、ふと思ってしまう。
ガラガラにすいている。ぼくを入れて4、5人しか客がいない。