よく晴れて風もない、のんびりとした静かな午後、と思ったら、近所の郵便局へ行ってその後にコンビニに立ち寄って帰るまでのほんの10分くらいの間に、雲が空を覆って太陽を隠し、強くて冷たい風がホコリを舞い上げて吹き荒れる。不安定な天気。雨なんか、全く降りそうもない感じだけど、今朝、テレビで気象予報師のお姉ちゃんが「 お出かけの方は騙されたと思って折り畳みの傘を持っていって下さい。きっと役にたちますよ。」と言っていたのを信じて、傘を持っていくことにした。折り畳みの傘は数日前に壊してしまったので、晴れてあたたかいなかを、白いビニール傘をぶら下げて歩くことになる。
東京都現代美術館へ『シュポール/シュルファスの時代-ニース〜パリ 絵画の革命 1966〜1976』を観にゆく。まだまだやっていると思ってたら、明日までだったので、慌てて出かけた。(『低温火傷』はもう終わっていたけど、それはどうでもいいや。)
MOTに行くのは滅茶苦茶久しぶり。一応、美術家のくせに、美術に対してこんな不勉強でいいのか、とも思うが、面白そうな展覧会をやらないのだから仕方がない。まあ、ぼく自身が、ここ2年くらいごくごく限られたものを除いて、美術作品を観ることを意図的に避けていた、ということも大きいのだけど。
シュポール/シュルファスについては、学生の頃からかなり強い関心があって、ルイ・カーヌやクロード・ヴィアラの論文というかマニュフェストを、結構熱心に読んで、いろいろ考えたり、刺激を受けたりしていた。だいいちシュポール(支持体)/シュルファス(表面)という名称からして、それだけで十分魅力的・刺激的だったりする。しかし、関心は強くあるものの、実際に作品を観たら、絶対つまんないだろうなあ、という予測も簡単についた。まあ、理屈としては面白いんだけど、それが『もの』として面白いものを産出するようには、ちょっと思えなかった。もっと言ってしまえば、その程度のことはセザンヌマティスピカソだって既に十分意識して作品をつくっているし、それを意識した上で、もっと複雑で雑多で深いことを作品として実現しようとしているでしょう、という感じ。
ぼくにとって、シュポール/シュルファスの、安直(手軽)で解放的で理屈っぽい感じへの憧れというのは、フランスの68年の思想や雰囲気への憧れと繋がったものでもあって、その文脈を抜きにしてしまうと、あまり意味のあるものではない。作品としてはせいぜいマグリット程度の、底の浅い表象批判のようなものでしかないだろう、という予測を勝手にしていたし、それは大きく的が外れたものではなかった。『絵画の革命』というより、革命の時代の雰囲気を反映した絵画、という程度のものだろう。68年的なものの多くが、その後の時代の変化に耐えきれずに腐ってしまったのと同じような末路を、シュポール/シュルファスも辿ることになる。
だから今回の展示も、期待していそいそと出かけた、というのではなく、シュポール/シュルファスがまとめて観られるなら、観とかない訳にはいかないだろう、という義務感からという感じが強い。実際に観てみると、一部の代表的な作家の作品以外は、予想以上のちゃちさというか、情けなさだった。でも、この情けなさはけっして悪くはない。このみすぼらしさを肯定することこそが、68年的な自由さということなのだと思う。日本のもの派のように、中途半端に工芸的に洗練されてしまったり、観客に対する情けない(本当に情けない)媚びやノリ、あるいは同世代的な共感、だけで成立しているような、現代の日本美術(特にぼくと同世代か、それより下の世代の人たち)などに比べれば、ずっと重要で貴重なものだ。
シュポール/シュルファスが68年的なものを色濃く反映しているとしたら、当然、匿名性への指向、つまり才能や能力や芸や手技といったものの私的な所有や使用という概念に対して批判的であるはずだろう。にもかかわらず結果として作品を観ると、そこには才能の違いがあからさまに露呈してしまっている。これは68年的な思想の最大の矛盾のひとつであるだろう。
作品の質として最も高いものをつくっているのは、やはり、ルイ・カーヌとクロード・ヴィアラだと思う。特にヴィアラの60年代末の作品はなかなかのもので、彼らの理論と拮抗するだけの実作というのは、この時期のヴィアラだけだと言ってもいいかも(観た限りでは)。カーヌの作品は実際にはとても古典的な絵画の感性でつくられていて、『パピエ・コレ』のシリーズは、趣味の良い普通の抽象絵画だし、『翼シリーズ』なども、木枠の放棄とか、支持体の表面全てを解放する、とか言っても、実際には擬似的な枠のようなものを、布を切り貼りすることでつくり、それによって作品の質の高さを保障しているようなところがある。良くも悪くも、カーヌは趣味の良い普通の画家なのだと思う。多少理屈っぽいけど。それに比べヴィアラは、支持体の表面全ての解放を、画面の上に同一の形態を反復させることによって実現したと言える。作品全体をひとつのものとして観ることもできないし、部分に分割することもできないような、ただ反復するという力だけが、作品を支えているようなもの。
しかし、70年代に入ると、ヴィアラは急速にその緊張感を失って行く。そこにはもうヴィアラ風のシステムがあるだけで、そのシステムに沿って制作すればいくらでもヴィアラ風の作品はできあがるし、そうすればたくさん売ることができる、といった感じ。ただ空豆風の形を反復させれば、一丁あがり、ってか。68年の思想はどこへいったんだ。ただの商売人じゃん。ミュージアム・ショップに、ヴィアラ・デザインの皿とかポットまで売っているのを見るに至っては、もう笑うしかなかった。空豆型の反復が、絵画の外、現実空間にまで拡張されたのだ、と言われればそれまでだけど。
作品を観ながら、今、ぼくがつくっている作品のあり方や考え方なんかが、かなりシュポール/シュルファスの感じに近づきつつあるかも、という危機感をちょっとだけ感じた。このままやっていくと、結局こうなっちゃうしかないのかも、というヤバい感じ。行き止まりがもう見えてるのかも。いや、でも何か別の道がまだあるはずなんだ。これが答えじゃない。
しかし、カタログ、3500円ちかくするのは高すぎる。買っちゃったけど。
外へ出ると、雨。傘もっててよかった。駅まで遠いし。雨の木場公園を、ぶらぶらと歩く。