とても気持ちのいい天気、髪を切りに行く。Tシャツ一枚でも汗をかく。美容院を出て、踏み切りの脇に立ち止って、電車が行き過ぎるのを待っている時の空気、陽の光。これが5月でしょう、という感じだった。『われに五月を』っていう寺山修司の歌集だか句集だかがあった。読んだことないけど。
20世紀がもうすぐ終わり、新たな世紀が開ける、という大掛かりな物語を、なぜみんなして共有しなければいけないのだろうか。ゴダールの『映画史』という作品を、この時代にあらわれるにふさわしい、20世紀を総轄するようなモニュメンタルな作品だと捉えてしまって良いのだろうか。こういう宣伝のされ方は『映画史』という作品にとってどうなんだろうか。むしろぼくにはゴダールの時代錯誤的なまでの、古典的な芸術家ぶりが、思いっきり前面に出てしまったような作品にみえた。例えば、『中国女』という作品が、おそらく1967年という年と切り離して考えることが出来ないのと同じようには、『映画史』は世紀末に相応しい作品だとは言えない。ここでは、一旦バラバラに断片化された映像や音声は、ただマテリアルとして、その強度だけを支えにして連結=再統合されているのではなくて、もっばら、キリスト教的な、死と再生の物語として組み直されて、完璧なくらいに制御されてしまっているように感じられた。
キリスト教圏に住む者として、というか、それこそ、神なき時代、郵便的不安たちが蔓延する場所に住む者としては、こういうゴダールの姿勢を素直に受け入れるのは、やはり難しいと言うしかない。
(『映画史』1Bが何故、カサヴェテスに捧げられているのかよく分らない。カサヴェテスはそのような美しいヴィジョンや古典的な豊かさから、完全に切り離されてしまっている地点で映画をつくっていたのではないだろうか。あの、爆発的で不条理な身体や感情の狂騒のようなものは、徹底した芸術的な「貧しさ」によるものなのではないのだろうか。内容は空疎だし、フォルムは壊れてしまっている。そしてその「貧しさ」によって、多分カサヴェテスは輝いている。)
まあ、ゴダールの『映画史』という作品を、あまり特別なものとしてみることをやめて、たくさんある、ゴダールの作品のうちのひとつ、として観るのが健康的で、そうやって観れば、やはり無茶苦茶に面白い映画だ、ということになるのだろう。