緑地へと降りてゆく。
別にわざわざ深い森や山の奥にまで入ってゆかなくても、ちょっとした緑地のなかへ行くだけで、人が感受する感覚刺激による情報量は急激に増加し、複雑化する。単純に視覚像だけをみても、様々に異なる植物たちの様々な形態や色彩が複雑に重なりあい、木漏れ日の効果で光線も均一ではなくなるし、細くてうねっている道によって、ほんの少しの移動が劇的に視覚的変化をもたらす。それに加え、風で擦れる葉の音があちらからこちらへ移動してゆき、幾種類もの鳥や虫の声、見えないところで何かが移動する音、などが絡みあう。決して平坦ではないし、堅かったり柔らかかったりする足元は、身体の均衡を得るために絶えず微調整を要求される。
だから、森のなかは決して平穏な安らぎの場ではなくて、常に多量の感覚刺激を与えられて、ちょっとした興奮状態を持続を強いられるような場所なのだ。これらの感覚刺激は、あまりに多量で複雑であるため、必ずしも意識にのぼるような『感覚』へと焦点化される訳ではない。特定の感覚として知覚されない様々な断片的な感覚刺激が、ぼくに向かって次々と投げ付けられてくる。これを単純化して『意味』という次元で受け取るのではなくて、それ自体を、そのまま、複雑さの度合い、強さの度合い、として受け取ること。
ただ受け取るだけでなく、それらの雑多で断片的な『それ自体としては何ものでもない』感覚刺激の切片を複雑に継ぎ合わせて、ある1つの感覚を生み出すこと。それは人間の自然な身体が構成する、自然な生きられた感覚ではなくて、人間の身体から引き剥がされた感覚、人間の身体の外側で初めてうまれるような人工的な感覚でなければ意味がない。
物質によって感覚を人工的に構築すること。物質と物質を組み合わせ、混ぜあわせること。モンタージュすること。それは表象することとは少しズレている。セザンヌマティス、カサヴェテス、ゴダール