ゴダール『映画史』

郵便局で、国民健康保険その他、いろいろな支払い。スーパーで漂白剤を買って帰り、思いっきり溜まっていた洗濯をする。洗濯しながら、いきなり、今日は絶対ゴダールの『映画史』を観にいこうと決意する。できれば3時20分からの上映を観て、その後『オール・アバウト・マイ・マザー』も、と思ったけど、間に合いそうもないので、6時20分からのにする。
電車のなかで、予習として『批評空間』の浅田・蓮實対談を読み返す。これは『映画史』を観るための最低限の予備知識をコンパクトに纏めていてとても助かるのだけど、これ読んでると何か、嫌な予感がどうしてもする。いつもゴダールの新作というといそいそと出来れば初日に観にゆくのだけど、今回はどうしても足取りが重く、決意しなければ観にいけないというのも、『批評空間』発売当時にこれを読んだせいもあると思う。
新宿で軽く食事をしてから、澁谷へ。ユーロスペースのロビーにいる客層がやけに若いのは何故だろうか。9割以上が大学生という感じ。残り1割弱が20代後半から30ちょっと、それ以上は、2〜3人くらい。いかにもって感じの安っぽいグレーのスーツにショルダーバッグのおっさんが、やけに居心地悪そう。というか、ぼくも、あまり居心地良く無い。そのおっさんに仲間だと思われたのか、おっさん、ぼくの前の席に座る。座高の高いそのおっさんの薄くなった頭頂部が、ぼくの視界の中心にどーんと据えられてしまう。
1Aと1Bは、以前日本で公開されたときに、確か池袋の今はなくなってしまった小さな映画館で観ていたのだが、今回はかなり印象が違った。1Aは、ハリウッドのプロデューサーについてから語りだされる。夢の工場としてのハリウッド、そこの権力者であるプロデューサー、欲望の対象としての女優。それらのイメージが次々と引用されるが、引用はかなり自由な連想=連結で繋がっていて、必ずしもハリウッド映画からだけ構成されている訳ではない。ゴダールによって集められた、本当に素晴らしい数々のイメージが、ゴダールによって断片化され、重ねあわされ、速度を換えられて、めまぐるしく連結されてゆく。しかし「苦しみのない5月」は過ぎ、「短刀で抉られた」6月へ。第2次世界対戦によって映像は変質する。後半は、暴力、殺戮、死体、のイメージで埋めつくされる。「戦争がそこにある。」映画はそれを見ている。映画はそれを記録する。「もしジョージ・スティーブンスが最初に、初めての16?カラーフィルムを、アウシュヴィツとラーヴェンスブリュックで使っていなかったとしたら、たぶん決して、エリザベス・テイラーの幸福は、陽のあたる場所を見い出さなかっただろう」この歌いあげるような口調が、ぼくにはどうしても気になってしまう。蓮實は「強弁も甚だしい(笑)」と言いながらも、ゴダールは強弁の人だと、基本的にこれを認めている。でも本当にそうか。音楽も含めて、音の使い方なんかも、どうしても「泣かせ」がはいってしまっているように感じた。80年代のゴダールは、確かに人の涙腺は刺激するものの、そう簡単に泣かしてなんかやるものか、という感じが常にあった。こんなにストレートに、泣かせる為に盛り上げるような音楽やナレーションの使い方はなかったと思う。もっと即物的というか、繊細に計算されたぶっきらぼうさがあったが、ここではそれが全て美しくまとめあげられてしまっている。1Bにしても、観ている間じゅうそのことがひっかかって仕方がなかった。
1Bは、イマージュは復活の時に到達するだろうという、キリスト教的なヴィジョンで始まり、映画は、コミュニュケーションの産業でもスペクタクルの産業でもなく、化粧品の、仮面の産業であり、主要な物語は性と死だ、として、主にイメージによる性と死の表象について展開される。死の瞬間、家族の写真、女性の身体、ポルノグラフィ、映画とは「逃避の産業」で「記憶が奴隷になる唯一の場所」だ。では、自由は何処に。歴史の外部としてのアフリカに? まさか。「テレビは、自らが生まれ出た穴を見ることを拒むことで、児戯に留まっている」この章は今日観たなかで最も自己引用が目立っていた。「男女間の抗争」を描く「カップルの作家」(ダネー)として常に性の表象や売春を主題としてきたゴダールなのだから当然の事ではあるけど。
ここまで観てくると、ひとつひとつのイメージのあまりの素晴らしさに、ゴダールの、20世紀の遺産としての映画史を、自分1人の手で消費しつくしてしまおう、自分にはその権利がある、それが出来るのは自分だけだ、という傲慢な企てを感じて、勿論それはその通りなんだろうけど、正直、うーん、という乗り切れない感じが増々強くなってきてしまう。浅田彰が書いている「わが身の特異性をもって普遍性を実現しようとする」「キリストのまねび」のような所作には、疑問を感じざるを得ない。ホントに凄いんだけど。絵画の引用なんて、オリジナルを実際に観るより、ゴダールの作品の一部であった方が、イメージとしての質が高いのではないかとさえ思わせるのだけど。
5分の休憩を挟んで2A。これはもう文句なしに素晴らしい。今までの疑問がふき飛んでしまうようなカッコ良さ。1のA、Bともに、タイプライターを打つ音が基本的なリズムを刻んでいたのだけど、ここでは表面のツルツルした紙にマジックペンで文字を書き、線を引く、キュッ、キュッ、という音で始まり、「映画が偉大なのは、投影=投げ出す(プロジェクト)することが出来るからだ」というナレーションの通り、プロジェクターの回転する音や電球を冷やすためのファンの音が、全体を活気づける。向こう側に正面を向いたセルジュ・ダネーを置き、手前にカメラを背にしたゴダールがいる。そのゴダールの手が、画面の左端しから右端しへと伸びていて、喋りながらそれが動く。その手の動きに呼応するように、画面に幾つもの手のイメージが招き入れられる。
ホテルの一室のような場所で、ボードレールを読むジュリー・デルピーが本当に素晴らしい。まあ、いつものゴダールと言えば、いつものゴダールなのだけど、いつものゴダールこそが凄いのだ。ジュリー・デルピーのクローズ・アップなどは、この作品に引用されている、キラ星のような映画史上の幾つものクローズ・アップと拮抗するぐらいの素晴らしさ。ここでゴダールが、俺はただ引用してるだけじゃねえぞ、と言っているようだ。
あと『狩人の夜』の引用も凄い。ここでは『狩人の夜』が特権的にたっぷりと引用されているのだけど、オリジナルにどのように手を加えているか知らないが、キラキラと輝くようなイメージになっている。川のなかまで追ってくるロバート・ミッチャム。必死で舟を出す2人の子供。震える水面。ゆっくりと川を下る2人の子供の乗った舟。見ようによっては畸形的にも見える女の子の顔。どれもが凄い。
音の組織の仕方も一番散逸的で、カッコいい。「泣かせ」が入らない。
2B、ここでは1Bにつづいて性と死の主題が語られる。しかしよりキリスト教的なヴィジョンが色濃く出てきて、正直ぼくには一番よく分らない章だった。まあ、この時点ではかなり疲れていた、ということもあるけど。映画は、芸術でもなく、技術でもなく、神秘なのだ。宇宙のコントロールマルセル・プルースト
ここでは、ゴダールが、暗闇のなかライトで浮かびあがり、斜め上をカッと目を開いて見つめているという、自らを宗教画のなかへ入りこませたようなショットが反復される。かなり戯画的なショットで、何故かサンバイザーをつけていたりするのだが、いかに戯画的とはいえ、これはアブナイなあ、と思ってしまう。ゴダールは自らのイメージを自分できちんとコントロールすることが出来る人で、自分の映画に出ても決してナルシスティックにならない人なのだけど、これはかなりクサイ感じがする。勿論、ファルスはファルスなんだけど。
そのうち、上半身ヌードのゴダールまで登場して、その70の老人とは思えない肩から腕にかけての筋肉の張りを見て(決してマッチョではないが)、イーストウッド(同い年)より若々しいじゃん、とびっくりしたりした。
無茶苦茶疲れた。まだ半分しか、しかも1回観ただけで判断することは出来ないのだけど、この作品をゴダールの最良のものとすることには、どうしても疑問がある。本当にこれが20世紀の集大成でいいのだろうか。
どうしても甘いものが欲しくなって、キオスクでチョコレートを買って、帰りながら食べた。