ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』

澁谷、ユーロスペースで、ジャン・ユスターシュの『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『不愉快な話』。ユスターシュと言えば、あの圧倒的な『ママと娼婦』しか知らなかったのだけど、今回の特集でちょっとイメージがかわった。なにしろ『わるい仲間』『サンタクロースの目は青い』『ぼくの小さな恋人たち』なんていう映画は、シネフィル体質の人の「最も神経過敏な部分」を直撃するような感じの、びっくりするくらいオーソドックスな「いい映画」だったりするのだ。逆に言えば、あまりにつくりが上品過ぎて、シネフィル以外の人にはウケようがないのではないかと思えてしまうくらいに「押し出し」が弱いと言うか、「キャッチー」(これってもう死語?)なところがない、と言うことなのだ。青山真治氏がboidで書いていた、ユスターシュの「擁護を必要」とする「弱さ」と言うのは、こういうことなだろうか、とも思う。これらの作品は、批評によって強く擁護されなければ、下手をすると日々、大量に生産されている他の凡庸なフィルムのなかに埋もれて見えなくなってしまう危険があるようなフィルム、と言うか。とりあえず、誰が観たって凄いと納得せざるを得ないだろう特権的な傑作である『ママと娼婦』以外の作品は、初期のヌーヴェル・ヴァーグのような、映画を撮ることの幸福さと悲痛さがないまぜになって震えているような初々しさにくらべるとかなりクールで抑制されているし、かと言って、作家の映画としていかにも分り易いような特色(個性?)を強く前面に押し出している訳でもない。あまりにも渋くて上品で、嫌な言葉だけど「玄人ウケ」するような抑制されたつくりになっている。描かれている内容にしたところで、冴えない若者の冴えない日常が描かれてるのだけで、面白い物語もスキャンダラスな要素もない。(『不愉快な話』はスキャンダラスな内容と言えなくはないが、でもそれは「売り」になるようなものとは言えず、良識のある人なら口を噤んでしまうような文字通りに「不愉快な」ものな訳だし。)人の共感を得易いと思われる「文学的な」感傷性も抑制されてしまっている。今やユスターシュは伝説的な名前である訳だけど(しかしこの「伝説」というのが、一体どの程度の範囲にまで有効なのか疑わしいけど)、もしぼくがユスターシュと同時代に生きていて、しかも彼の映画のプロデューサーだったりしたら、こういう映画をどうやって「売れ」ばいいのだろうか、と頭を抱えてしまうだろう。勿論、作品自体は文句なく素晴らしいものであるのだが。例えば、『サンタクロースの眼は青い』には、ジャン・ピエール・レオーが夜道で仕事帰りの女の子をナンパする長回しのシーンだとか(夜の、石で出来た街に反響する靴音の素晴らしさ!)、女の子が元ボクサーの男を毎晩待っている、カフェの入り口の細長い空間だとか、数えあげれば切りがない程素晴らしい瞬間に満ちているのだけど、それらがあまりにまっとうに映画的なので、それらを声高に賞賛することがなんとなく憚られてしまうような感じなのだ。

このような思い巡らしはまったく意味のないもので、地味だろうが「売り」がなかろうが、素晴らしいものは素晴らしいのだし、堂々と素晴らしいと声高に主張するべきだ、という意見が恐らく正しいのだろう。作品は、それ自体の輝きの力によって、何度でも回帰してくるはずなのだ。そのような「作品の力」を信じられないなら、作品を観たりつくったりすることには何の意味もないだろう。しかし、そのような「正しさ」だけで、本当にこういう作品を存在させ続けることができるのだろうか、という不安から解消されることも、永遠にあり得ない事なのだろうが。