黒沢清『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』(90)『よろこびの渦巻』(92)をDVDで観た。これは、89年の『スウィートホーム』以降、94年からはじまるのVシネマ量産時代までの間の、黒沢清が最も不遇だった時代にテレビの深夜ドラマとしてつくられた作品で、今、観ると、かなり恥ずかしい感じがする、とても微妙な作品だ。この当時の黒沢清の、映画作家としての危うさを考えると、94年以降のVシネマ連作時代が、黒沢氏にとっていかに重要であったのかが分かる。例えば、『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』は、『打鐘 男たちの激情』(94)で何かが吹っ切れ、『勝手にしやがれ!!シリーズ』を経て、『復習 消えない傷跡』(97)や『蜘蛛の瞳』(98)、そして『ニンゲン合格』(99)へと至る傑作たちが製作された後の現在という地点にたって、遡行的にみれば、これらの傑作の「原型」とも言える要素が散りばめられた重要な作品と言えるのかもしれないが、この作品を単独で観れば、質が高いとか面白いとかは全然言えない。むしろ、「80年代的なもの」や「シネフィル的なもの」のもつ恥ずかしさが前面に出ていて、かなりイタくて恥ずかしい作品だと言えるだろう。(例えば、この作品での女優と言うか、女性キャラクターのあまりに魅力のない使われ方を見ると、大塚英志が『おたくの精神史』の「少女フェミニズムの隘路」で批判していた状況が「どのようなもの」だったかが、その時代を知らない人にも感覚的に理解されるのではないだろうか。)大杉蓮の使い方も上手くいっているとは思えない(演技出来る/演技してしまう俳優をどう使ったらよいのかが、この時点ではまだ掴めていなかったのだと思う)。
『もだえ苦しむ...』が、94年以降のVシネマ量産時代の前触れ的な作品であるとすると、『よろこびの渦巻』は、その時代には抑制され潜在化されるパロディアス・ユニティ的なナンセンスが前傾化されている。しかし、それにしてもパロディアス・ユニティ風の主題の反復という感じで、全体としてはユルくて、パロディアス・ユニティ時代の作品にあった、新鮮さや、禍々しさのようなものは失われているように思う。例えば、プロの俳優だけではなく「友人」を多く起用するような(アマチュア趣味=仲間内主義的な)やり方は、ここでは既に全く力を失っているとしか思えない。過剰なナレーションも、ここでは装飾的な意味しかもっていない。(ただ、後半の、長回しによる群衆シーンは凄くて、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』や、もっと後の『勝手にしやがれ!!英雄計画』『大いなる幻影』などの同様のシーンよりもずっと上手くいっているように思う。あと、松田ケイジのような、それ以前の黒沢作品とは相容れないようなキャラクターを受け入れていることの意味は大きいかもしれない。松島誠や加藤賢崇のような、黒沢的なキャラクターだけでは自分の作品がもたないことが自覚されていて、いろいろと模索していたのかも知れない。)
この二つの作品は、当時の黒沢清が、たんに状況として不遇だっただけではなく、作家としても困難な位置にいた(つまり「行き詰まって」いた)ことを示しているように思う。だからこそ、それ以降のVシネマ量産による突抜けが素晴らしいのだし、それは多くのことを示唆してくれる。