03/12/09

昨日のことになるけど、映画美学校の試写室でペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』を観た。この映画については、多分「映画芸術」にレビューを書くことになると思うので、あまり突っ込んでは書かないけど、ペドロ・コスタという監督が大変な映画作家であり、『ヴァンダの部屋』という映画が傑作と言ってもよい作品であることは間違いないとは思う。ただ、この映画において、撮影される対象とそのスタイルとの間にある落差については、どう考えればよいかがいまひとつ掴めなかった。(この「掴みづらさ」が作品のせいなのか、それともぼく自身の体調と、加えてあまりにも効きすぎの暖房のせいで頭がボーッとしていたせいなのか分からないけど。)非常に美しく繊細な光の捉え方、無茶苦茶かっこよく決まっているフレーミングによる画面で捉えられるのは、建物の取り壊しが進んでいるようなスラム街に住む、ただ生きているような人たちの姿なのだ。つまり「映画」として高度な達成をみせている画面と、そこに撮影されている人たちの生活やその風景との関係のあり方が、いまひとつ腑に落ちなかったということ。例えばジャ・ジャンクーの映画においては、「青春映画」をつくることと、現在の中国の風景や人物を捉えることが、とても幸福に結びついているようにみえる。しかしペドロ・コスタはそのような幸福など信じてはいないはずで、おそらくシネフィルで、映画を沢山観ている人にしか撮れないような画面をつくるペドロ・コスタは、「映画」として良い画面やシーンを撮ることと、目の前に風景があり人物がいるという現実から受ける肌触りとの乖離とを、意識していないはずはないと思う。そしてそのズレの感覚は、恐らく「音」や「時間」としてこの映画に現れている。建物を破壊する振動音や嫌な感じで喉に引っかかるヴァンダのせき込む音の反復が、ある基底的なものや身体が崩れてゆく不安定な感覚を召還するし、構図としてはかっこよく決まったフレームも、時間としては曖昧に流れるような感じでとらえどころがなく、2年間かけて撮影されたらしいこのフィルムに、2年というはっきりした時間は刻まれず、ほんの1週間くらいの出来事のようにも思えるし、もっと長い期間とみることもできるようになっていて、この不定形の停滞感が人物やこの土地そのものの「未来のなさ」を漂わせる。(このことは樋口泰人が指摘している通り、ある行為が示されても、その結果=未来が示されないという語り方にも関係しているだろう。)しかし、そこまでは分かるとしても、例えば昼間から部屋を真っ暗にして、蝋燭の光のなかで人物が語り合うシーンなどは、あまりに「美的」に過ぎるのではないか、こういうシーンによって「何を」やろうとしているのか、がいまひとつ腑に落ちなかったのだ。15日にアテネフランセ文化センターで、『ヴァンダの部屋』と同じ家族を撮影した『骨』を上映するそうなので、なんとか時間をつくって、この点の確認も含めて観てみたいと思う。