03/12/10

自衛隊イラク「派兵」が正式に閣議決定された。このことについてどう考えればよいのだろうか。前の選挙で小泉政権が潰れなかった以上、こうなることは既に分かっていた、とも言える。僅かな望みは公明党の存在で、あれだけ「良い位置」にいるのだから、連立離脱などをちらつかせて揺さぶりをかければ、それなりの効果が期待できるのではないか、などと考えていたぼくは甘っちょろいのもいいとこで、だいたい、きわめて緊密な選挙協力をしている時点で、そんなことをする気などさらさらなかったのだろう。抵抗などたんなる儀式で、全ては予定調和的に決まっていることだとでも言わんばかりに事態が進行してゆく。いや、こういう言い方が良くないことは分かっているし、実際、何が起こるのかはその時になってみなければ分からないというのが本当だろう。事前に全てが決まっているかのような言い方をすることこそが、そのように事態を進行させることを助けるのだ。それにしても小泉首相はなぜこんなにも強いのか。この男を抑制させることの出来るタマはどこにもいないのか。笑う以外に反応しようのない無茶苦茶な解釈で憲法まで持ち出してくる小泉首相に対して、そしてそれが「通って」しまうことに対して、一体何を「感じれば」よいのかさえ分からなくなる。どんな言葉も、理屈も、手続きも意味などなく、ひたすら「恫喝」と「泣き」だけで周囲を言いくるめ、「後になれば分かります、今までもそうだったでしょ」などと平然と口にするような男の空虚なゴリ押しが勝利する様は、別に国政の場だけではなく、確かに至るところに見られる見慣れた風景ではあるのだが。(例えば人の死を「遺志を継ぐ」などと言って劇化し戦意高揚に利用するような野蛮な行いは、ありふれてさえいる。)このような場所で、流れに「反対」を表明することは、どのようにすれば可能なのだろうか。(反対意見はいくらでも聞きますよ、でも最終的には私が「責任を持って」判断します、苦渋の決断です、とさえ言えば何でも通ってしまう。議論も手続きも何もない。)「耐え難いことを耐え難いものとして記述する営為」は続けられなければならないのだとしても、ここでは「耐え難い」という感情を辛うじて記しておくことが出来るだけだ。

●昨日のことだけど、10/29の日記にその絵画作品について書いた松本貴美子さんという画家とお会いして話をした。松本さんの作品の色彩は、日常生活のなかで目にした「これは」というものから採られていて、そういうものを目にした時は、その感触が生々しいうちに絵の具で「その感じ」の色を多量につくってしまうのだそうだ。つまり、絵を描く時に絵の具(色彩)を練るのではなく、ある色彩(絵の具)がメモのように日々たまっていって、それをもとにして絵を描きはじめるということらしい。メモとしての色彩が、そのまま絵の具として画面に塗布されるのだ。ぼくにはそのような発想が今まで全くなかったので、それをとても新鮮に感じた。と言うか、早速真似して試してみようと思ったのだった。