連休の中休み/絵を描くこと

連休の中休みで、まともに授業をやってもしょうがないということなのだろうか、近所の中学生たちが、大勢(1クラスというのではなくて、1学年全てという感じ)が出て、公園やその近くでパラパラと散ってしゃがみ込んで写生をしていた。いまどきの中学生が、こんなにおとなしく絵を描くのかなあ、と思うくらいに、皆、結構ちゃんと描いているのだった。確かに、今頃の時期が、公園の植物に若葉が出ていたり花が咲いたりと、最もニュアンスの豊な時期だし、外でしゃがんでいても、暑くもなければ寒くもなくて、こういうことをするには絶好の時期なのだろう。

人が絵を描いていると、単純に自分も描きたくなってウズウズしてしまう。身体とは触発し触発されるものだ、と言ったのはドゥルーズだっけ。でも、よくそこら辺りでスケッチブックやカンバスを広げているおじちゃんやおばちゃんの絵画サークルの人を見掛けても、全然絵なんか描きたくならないし、むしろ絵画なんてつまらないものだ、とうんざりしてしまうことが多いのだけど。多分、ある程度(中途半端に)絵が描ける人は、目の前にあらわれている圧倒的なニュアンスの豊かさに触発されるよりも先に、絵とはこう描くものだ、このような手順を踏んでやれば、この風景をそれらしい絵として封じ込めて纏めることが出来る、と言うことの方が勝ってしまい、その段取りが、圧倒的な現実のニュアンスによって揺るがされることがなく、むしろ現実からの知覚の方を技法に合わせて矯正してしまうからだろう。若者は感性が鋭い、などというのは本当に笑ってしまうような嘘なのだが、それでも子供はものを知らない分だけ、素直に(知らず知らずのうちに)周囲の環境から触発されてしまうものらしくて、近くを歩きながら横目でチラチラと描いてるものを覗いてみると、ぼくの画家としての「描きたい」という単純な動物的本能を刺激してくれるようないい感じものが、結構あるのだった。勿論、このような「新鮮さ」だけでは絵画は到底持ちこたえることが出来ない訳で、絵画には歴史もあるし、社会空間のなかで具体的な他者との関係から生じる「作品」としての意味というのもあるのだ。でも、このような「新鮮」さが根底にないとしたら、そんなものには何の意味もないように思える。(ぼくはここで、何人かの「絶対にあんな風にはなりたくない」作家の作品を、具体的に思い描いているのだった。)

考えてみればぼくはもう10年以上も屋外で写生するなんてことはしていなくて(したい思うことは、しばしばあるのだが)、作品をつくるときは必ずアトリエに「引き蘢る」のだけど、それには一応理由はあって、屋外のような様々なニュアンスが渦巻いていて次々と襲ってくるような場所では、それを受け取る(知覚する)のに精一杯になってしまい、とても描く/つくるという出力/構築の作業にまでは手が回らない、と言うことなのだけど、でもそれはどうも言い訳くさくて、本当は、外で描くなんてまるで「ベレー帽をかぶった画家」みたいで、或いは「阿呆なパフォーマー」みたいでカッコ悪いじゃん、と言うことらしくて、つまりは社会的な自意識の方が、愚直な描きたいという欲望よりも勝ってしまっていると言うことで、こんなことじゃまだまだ駄目だなあ、と思うのだった。