行定勲の『ひまわり』をビデオで

行定勲の『ひまわり』をビデオで。忙しさも峠を越え、風邪も直りかけているので、ちょっと軽めに映画を観ようと思った。決して褒められるような作品ではないし、かなり恥ずかしい映画だけど、嫌いとは言い切れないところがある。出だしの部分で、同棲中のカップルがモメているシーンで、意味がよく分らない(新しい感覚ってやつなんだろうけど)、固定ショットと手持ちのカメラでの揺れるショットの切り返しなんかがあったりして、これは外れかなあ、と思ったのだが、はっきり外れとも言い切れない。この映画はあらゆる要素が全て中途半端という感じで、一体この監督は何をやりたかったのかイマイチつかみづらい。と言うか、この映画が面白いのかつまらないかも、なかなかつかめない感じなのだ。顔も思い出せないような小学校の同級生が事故死して、その死の前日に何故かその女の子からの留守電メッセージが入っていた。主人公の男は同棲中の女とモメているのだが、とりあえず東京にいる同級生に声をかけて、葬式のために久々に故郷に戻る。顔も思い浮かばずに曖昧だったその死んだ女の子の輪郭が、葬式に集まった複数の人々の記憶によって徐々に浮かびあがってくる。こういう物語を設定する時点でもうかなり危うくて、こんな話はどうしたって甘っちょろいセンチメンタルなものになってしまう訳だし、どうせそうなら、ほとんど大林宣彦並みに徹底して通俗的にやってしまうか、あるいは、死んだ女の子の残した痕跡や複数の人物による記憶をもっとクールに扱い、記憶(過去)と現在の相互浸透やズレを複雑に(理知的に)組織化してゆくかしなくてはならないと思うのだけど、結果としてどっちつかずの中途半端なものになってしまっている。

結局のところ、不在の者を巡るノスタルジックでセンチメンタルでいい気な思い出話に過ぎないとも言えてしまえるこの映画が、それでもどこか面白い所があるとしたら、始めはたんに謎として登場人物や観客を惹き付けていたにすぎない死んでしまった女の子の存在が、映画が進行してゆくにしたがって、「たしかにそこに1人の人間が存在した」と思われるような抵抗感とともに浮かんでくるようになる、という所にあるだろうと思う。それは、かつて同級生だった誰か、ということでも、謎の死をとげた誰か、ということでもなくて、どこにでもいる誰でもあるような誰か、しかし確かにどこかに生きていた誰か、であるような、匿名でありながら、確実に存在する者、なのだ。その人物に対して、ほとんと関心などないにも関わらず、かつて同級生だったという義理だけから葬式に参列した者たちの間に、そこに集まった複数の人物の記憶が交錯することで、かつて同級生だったかどうかなどとは無関係に、「あるひとりの女の存在」がむっくりと立ち上がってくる(構成される)、という感じ。(ただ、映画としては、最終的にはこの女の子の存在を、同級生たちの思い出の中に回収してしまって、美しく終わろうという感じではあるのだが、それを超えて、匿名のある女、の存在が突出する感じも同時にあるのだ。)袴田吉彦が投げたドッヂボールのボールが、麻生久実子の肩の辺りにぶつかって、ボコッという鈍い音をたてて跳ね返る。ぼくとしては、もうそれで充分に全てを語ってしまっていると思えて、その後のヒマワリが咲いているところとか、日蝕とか、余計な装飾はいらないと思うのだが。もしかしたらぼくは、このシーンがあるからというだけの理由で、この、あらゆる意味で「甘い」映画が嫌いになれないのかもしれない。

この映画で麻生久実子が演じたような人物は、勿論それ自身として存在している訳だけど、ただ存在するだけでは誰からも見られることのない、匿名の存在であるのだ。そしてそれは、複数の視点、複数の記憶、複数の痕跡によって、それらが交わった交点において構成されることによって初めて、投げかけられたドッヂボールを跳ね返すような、がっしりとした存在感を得ることができるのだ。ボコッという音とともに跳ね返ったボールの感触を、人はそう簡単に物語や思い出として回収することはできないだろう。あるひとつの固有性とは多分そういうもののことで、だからそれは決して固有名化されないものなのだと思う。