一昨日、『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキー)を観ていて思ったの

●一昨日、『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキー)を観ていて思ったのは、この映画の生々しいリアリティは、「夢」のようにつくられているからではないか、ということだった。保坂和志は確か『世界を肯定する哲学』で、人はある年齢に達すると世界に対してたかをくくるようになり、あるいは目の前の出来事の裏(や仕組み)を常に考えるようになるのだが、夢のなかではいつも、その夢の設定を何の疑問もなく受け入れてしまうし、その設定のなかで、(まるで幼児が世界に接するように)その設定に引きづり回され、余裕無く、距離を設定することなく無防備に生きることを強いられる、というようなことを書いていたと思う。そしてそのような「夢」の強いられた生々しさこそが、リアリティというものの源泉であり、現実の世界で感じるリアリティを支えてるのではないか、と。『動くな、死ね、蘇れ!』という映画を支えているのは、物語でも世界観でも話法でもエクリチュールでも人物への共感でもなく、まさに今、目の前にあらわれている視覚像と音、その出来事の圧倒的な強さであり、それはただそのまま「受け入れる」か全てを「拒絶する」かどちらかしかないようなものだろう。この映画は基本的に作者(必ずしも監督とは限らない「誰か」)の少年時代の記憶を題材としてつくられているのだろうし、この映画には、いわゆる「(悪)夢のようだ」というような変形や誇張や因果関係の曖昧さ、幻想性などはほとんどみられず、あくまでリアリズムに徹しているようにもみえるけど、その記憶の「再現」が、過去についての「物語」としてではなく、今、観つつある「夢」のようにして構成されていることが、「現在しかない」ようなこの映画の生々しさと余裕のなさ(距離の設定の困難さ)という効果を生んでいるのではないか。(にも関わらずこれは「記憶」なのだ。)今、見えているものや聞こえていることといった「現在」が世界の全てであり、そのフレームの「外」が存在せず、その世界をそのような姿にしている「仕組み」を探ることが禁止されている(意味をもたない)ようなこの映画の「世界」のなかで、唯一、今ここではない場所から染み出してくるように聞こえてくるのが、日本語の唄だろう。この映画から聞こえてくる音は、台詞や音楽まで含めてほとんど全て、この映画の世界の内部で実際にたっている音なのだが(画面の外からかぶせられる音ではない)、ただ(おそらく日本語を理解しない人によって唄われている、そのせいで奇妙に「正確」な)日本語の唄だけは、その位置が確定しない曖昧なところから聞こえてくる。この映画の主人公の住む地区には、ごく身近に日本兵が存在しているので、映画世界の内部で日本語の唄が日常的に反復して聞こえていても不思議ではなく、そうであると解釈しても不都合はないのだが、例えば主人公と同じ長屋に住む住人が唄うロシア語の唄などとは明らかに異なる調子で、どこからともなく染み出るように聞こえてくる日本語の唄は、世界の内部に存在するのではなく、その唄の反復こそが、この映画の世界を生み出し、持続を支えているようにさえ感じられるのだ。つまり、日本語の唄が、画面の内側からでも画面の外側からでもない、どことも確定されない曖昧な位置から聞こえてくるように感じられ、それが反復的にあらわれることで、まるでその反復こそが世界全体をささえている基底であるかのような効果をもち、その効果によって、この映画の世界が物質的根拠とは別の場所にたちあがっている、夢のような、幻のような(構造が解明出来ずただその「あらわれ」をそのまま受け入れるしかないような)世界であるように思え、その世界が、夢のような物質的な基盤(下部構造)とは切り離されたものであるように感じられるからこそ、それぞれの個々の細部が(世界を構成する因果関係とは切断された)、あくまで細部の表情の「強さ」そのものとして生々しくリアルにたちあがってくるように感じられるのだと思う。(「夢」であるからこそ、人はその世界の「仕組み」を知ってそれにアクセスし、それにはたらきかけ、改変することが出来ず、つまりその「外」に出ることが出来ない。)
この映画が主人公の少年の周囲に配置された世界であり、その記憶によって(事後的に)構成されている「夢」の世界であることをはっきりと(逆説的に)示しているのがラストシーンだろう。(とは言え、この「少年」は特定の主体ではなく、誰でもない「誰か」、ある世界がその人物を中心として形成されるようなひとつの「形象」に過ぎないのだが。)この映画のほとんど全てのシーンに少年は登場していて、少年の登場しないショットや、少年とは別の人物が焦点化されているシーンでも、それは少年の居る場所と「同じ場」での出来事を示している(例えば少年と同じ長屋に住んでいるとか、少年と同じ学校にいるとか)のだが、ただラストシーンだけは、少年が決して「観る」ことの出来ないはずの場所での出来事があらわれる。(画面には少女の死体のみが示され、少年は「病院にいる」のだと説明される。)そしてこのシーンは、死んでしまった少年が冥界から観ている視線によって構成されているとか、病院のベッドで意識が混濁した少年によって観られた夢だとかであるかのように、少年の「視線」がこの映画のシーンのなかで唯一強く感じられるのだ。(くり返すが、他のシーンで少年は常に画面にあらわれるひとつの中心的な「形象」であり、この映画の世界の内部にほとんど世界と不可分に存在し、そこから浮かび上がるのであって、視線の、あるいは記憶の「主体」であるという感じはほとんどない。この映画の世界を支えているのは少年という「主体」ではなく、あくまで不確定な位置から聞こえてくる日本語の唄の「反復」的なあらわれなのだ。)つまり、この「決して少年によって観られるはずのない」シーンこそが、「少年の視線の存在を強く意識させる」ということによって、この徹底したリアリズム(このリアリズムこそが「夢」の効果であることは前述した通りなのだが)の映画が、まるで誰かによって観られた夢のような(つまり特定の「誰か」にという存在に向かって収束した)印象をもって閉じられる原因なのだろうと思う。