●昨年末からいろいろあって、なにかと余裕がない。(これは時間的なものというよりも、精神的なものなのだけど。)それを端的にあらわしているのが、最近ほとんど「小説が読めない」という事実だろう。読みたいと思う小説を買って来ても、なかなか読めないのだ。理論的な文章などならば、時間をみつけて、少しずつでも読むことは出来るのだが、小説を読もうとすると、その冒頭で撥ねつけられてしまい、1ページ目がなかなか越えられない。小説の最初のページを読むということは、かなりの重労働が強いられるというか、大変なことで、これからどんな世界が展開されるのかという探りを入れつつ、感覚を出来るだけゆったりと開いてその世界と同調しようと試みながらも、しかしその世界に全く自分を預けてしまうのではなく、読む側の主体的な足場のようなものもどこかに残して(見つけて)おかなくてはならない。その、相手(小説)に預けるものと、自分の足場として残しておくものの配置や配分や割合を、相手の出方(つまりその小説の書き出し)の感触を探りつつも注意深く調整し、見つけ出してゆくというのが、恐らく、ある小説の書き出し部分を読むということなのだと思う。これは小説に限らないことなのだけど、「作品」を受容するという時は、たんにそれへと同調出来る部分だけではなく、むしろ違和感や拒絶の発生する部分にこそ意味が浮上するのであり(だからと言ってただ違和感や拒絶しか感じない作品をわざわざ読む必要はないし、そういう作品はつまらないと判断すればよいのだが)、だからその違和感や拒絶の感触を、ある程度鷹揚に受け入れるための受動性と、さらにそのような受動性を発揮するのと同時に発動される、ある「判断をする」という能動性が同時に立ち上がる必要がある。つまり、同調と拒絶、受動と能動との間で漂いつつ、前もって前提とされるものに出来るだけ頼らない形で(つまり自分自身をも変化させることをいとわずに)、そこに、なにかしらの「形象(意味)」がたちあがってくるのを鋭敏に嗅ぎ取るというのが、作品を「読む」ということなのだと思う。そしてこのようなことを可能にするための「体勢」を整えるには、やはり「余裕」というものが必要なのだろう。特に、見えるとか聞こえるとかいうような直接的な感覚に訴えるのではなく、あくまで書かれた文字を「読む」ことによって初めて起動する小説という形態の作品を受容するためには、ことさら余裕が必要なのではないか。(いや、主観的には、それほど切羽詰まって「余裕が無い」と感じているわけではないのだが、小説を読もうとしてもなかなか受け付けないという事実から逆算すると、今のぼくは相当余裕がないのではないか、と推測出来てしまう、ということなのだけど。)
●劇場へ出向いて映画を観るというのはまた、それなりに余裕が必要な行為で、観たいと思う映画の上映館を探し、上映時間をチェックし、それに合わせてそこまで出かけ、その上映時間中イスに縛られ、見終わった後にその記憶や感触を反芻しつつ喫茶店でぼーっとお茶を飲んだりして、そして帰ってくるという時間の使い方は、やはり余裕のある時間の使い方で、今のぼくに出来るのは、借りて来たビデオやDVDを、1時間とか30分とかで区切りつつ、途切れ途切れに観るくらいのことで(くり返すがこの余裕の無さは時間的なものと言うより精神的なものなのだが)、これはやはりなんとかしなければと思うのだった。