●昨日も書いた通りなにかと余裕がないのだが、困難な状況でその貧しいなけなしの余裕のほぼ全てを使ってしているのは絵を描くことで(4月に個展が迫っている)、絵を描くには本当に湯水のように贅沢に時間を使うことが必要なのだった。これはたんにじっくりと時間をかけて作品に手を入れるというような生真面目で単調な時間ではない。どこかのインタビューで蓮實重彦が、映画のレビューを書くには、それを実際に「書く」前にどれだけ「無駄な時間」を過ごせるかが勝負だというように発言をしていたが、そのような意味での「時間」が必要なのだ。だからこそ「湯水のように」使われる、余裕のある時間が必要なのだ。「作品を作るためだけに費やされた時間」しか持たない作品は、どこか単調で、幅や深みややわらかさを欠いてしまうように思われる。(だから本当は、昨日の日記に書いたような「小説が読めない」という余裕のない状態で作品を製作するのは危険なことだと思うのだが。)
例えば、絵を描いている時に重要だと最近つくづく思うのは、どこで作業をやめるのかというタイミングを見極めることだ。これは、どこで作品を「完成」と見なすのかという議論を延々とやっていた抽象表現主義の作家たちの問い(そのような問いは、いくら議論しても結局は意味がないと思う)と通低はしているのだが、それとは異なる。それは決して「完成」を巡る問いではなく、あくまで、「区切り」のタイミングを巡る問いであると思う。つまり、一日の作業の区切りをどこでつけるのか、あるいは、一つの作品という区切りをどこでつけるのが、ということ。今、手を入れている画面が、そこで一旦手を止め、作業を中断してもかまわない、あるいは、中断すべきだ、という状態になった事を、いかに鋭敏に察知出来るか、ということ。作品を生成し、構築するという作業そのものは、ある程度の方針や方向性や感触さえ掴めれば(これを掴むことこそが困難ではあるのだが)、ある意味システマティックなもの(このシステマティックな時間の「強度」が問題なのは言うまでもないが)だとも言えるが、その生成と構築の作業を「中断してもよい」という点をみつけるのは、カンとしか言いようの無い、その根拠を捉え難い判断が必要とされる。この「中断」のリズムは、作品に決定的な影響を与えるのではないかと、最近増々思うようになった。それはぼくの作品の変化とも関連があって、何年か前は、素材を集めて強い火力で一気に炒めるというような中華料理みたいにして作られる「層」を、何層も重ねるというようにしてできる作品だったので、区切りのタイミングはそこで「一気」になされる「一息」とも言える持続によって自ずと決定されたのだが、今は、ひとつひとつのストロークがそれ自体で、以前の「一気に炒める」層と同等の意味をもつ(ことが少なくとも目指されている)ような作品なので、区切りのタイミングを判断することが一層重要になり、かつ難しくなってきているのだ。ここで作業を中断してもよいという地点は、その日の作業をはじめてから2、30分で訪れるかもしれないし、5、6時間後に訪れるのかも知れない(5、6時間たっても訪れないとすると、その日の作業全体、そこで流れた時間全体の精度が「疑われ」なければならないと思うが)。それは実際に手を入れてみなければ分からない。だから、ちょっと時間があるから、ちらっと手を入れてみようということが出来ない。制作に「入る」タイミングよりも、そこから「出る」タイミングのほうが難しいのだ。制作のための時間は「ケツカッチン」では駄目で(「終わり」が決まっているということは、その時点で既に或る程度「かたちづくられて」しまっているのだ)、たっぷりと余裕をもってとられ、その時間が「事前」にはどうなるのかが分からない「不定形」なものとして捉えられていることが重要で、制作の時間、そして作品そのものは、不定形ななかで探られ、かたちづくられなくてはならないのだと思う。(つまりこれは、空間的なフレームだけではなく、時間的なフレームも問題だということだろう。)