●この日記は、どんなにつまらないことでも、とにかく可能な限り毎日書くということを基本にしている。つまり、書くべきこと、書きたいことがあるから書くのではなく、毎日書くと決めたから「何かしら」書くのだ。しかしそんなことに何の意味があるのか。
どんなにつまらない事でも、何か「書く」には、「書かない」時には使わない頭を使うことになる。書く事で、書かないままでいるよりは多少は頭を使う。たまには、もし書かなければ(書くという作業を経なければ)そんなところまで考えもしなかっただろうというところまで、「書く」ことに考えが連れてゆかれることもある。(しかし一方で、不用意に書いてしまった「言葉」に自分で縛られてしまうこともあるが。)
しかしそれにしたって、日記は日記でしかなく、人が一日というスパンで考え得ること、考えを展開し得ることなど知れているだろう。一日という単位に追われ、一日という単位でブツブツと途切れるような思考は、そのリズムに支配されてしまっているし、その短さが思考の持続にとって悪影響さえ与えるのではないか、とも感じられる。一日単位で決着され、収束されることが義務づけられている文章は、考えることよりも、書き癖、考え癖を強化させ、その時のノリや気分や勢いに流され、無理矢理まとめるための誤摩化しを無数に呼び寄せてしまうだけではないか。いちいち資料などに当たっている時間もないので、勘違いや記憶違い、固有名の間違いや取り違いなども多く含み、その場の思いつきによってまとめられる文章の多くは、後から読み返すと何と浅はかな考えだろうと我ながら感じられることも多いし、その時の感情に支配され、その時に観ていたり、読んでいたものにあからさまに影響されて(と言うか、たんになぞって)しまっていることもしばしばだ。ということで、日記というかたちで書き得ること、日記を書く事によって可能になる考えること、の、「限界」や「弊害」などを感じることが、日々増してきていることは否定できない、
しかしでは何故、それでもしつこくつづけているのか。そんなことをする時間があったら、もっと別のことをべきではないのか。だが、浅はかな考えであっても、たんに人の考えをなぞっているだけであっても、実際に「書いて」みなければ(怠惰なので)その程度のことすら考えないだろうし、実際に「書かれる」ことによって自分の考えが「この程度」でしかないということも記録され、後から読み返すことである程度は「浅はかさ」を認識できるのだ。そして何より、いかに独り言のような事柄でも、おそらく「書く」ということは誰でもない(実在するかしないか不確定な)誰かとしての「想像的な他者」に向けての呼びかけ(への欲望)という側面があり、それはぼくという「症候」にとって、実際に関係のある具体的な他者(への欲望)とはまた別の意味をもち、それを必要とし、それによって支えられているという側面があるのだろうと思う。難しい理屈はともかく、5年以上もの間つづけているということは、それが決して嫌いではないということで、「嫌いではないことをする」というのは、それに意味があろうがなかろうが、少なくともぼく自身にとっては貴重なことなのだ。
日記とは直接関係ないが、決して積極的に「好き」ではないにしても、(結果として)長くつづけられる程度に「嫌いではないこと」がいかに貴重なものであるかを、ぼくは、ぼく自身の最近の身辺の変化によってあらためて知らされたのだった。「嫌いなこと」って、理屈抜きで本当に嫌いなのだった。これは結構重要なことだ。