●最近、「風の旅人」にぼくが書いている文章を両親が読んでいるらしくて、メールで感想が送られてきたりする。これはちょっとした驚きなのだった。ぼくの両親は、基本的に本を読んだりするような人ではない。父親の本棚では、成功した人の人生訓とか、スポーツ指導者の精神論みたいな本しか見たことがないし、母親は本をほとんど読まない。まあ、新聞や週刊誌くらいは読むだろうけど。つまり、芸術とか文化とか文学とかいうものに関する興味や趣味というものがない。(こういう両親でもちゃんと、養老孟司とか茂木健一郎という名前は知っているのだ。「メジャー」というのはこういうことなのだろう。)ぼくの書く文章は、両親が普段接しているであろう新聞や週刊誌などの文章とは違って、時事ネタやもの珍しい話題などもないし、明確なメッセージや「だから、地球環境に配慮しましょう」みたいな分り易い落としどころ(結論)もない。しかも、「風の旅人」の文章は、毎回原稿用紙にして15、6枚くらいの長さがある。普段、本を読まない人がさらっと読めるような長さではないし、内容だって分り易いとは思えない。そういう文章をちゃんと最後まで読んで、しかも、わけが分からないとは言ってこない。
最後まで読むというのは、これを「息子が書いた」という身内贔屓が強く働いてのことでもあるだろうが、例えば、両親は、展覧会でぼくの作品を観ると、もっと明るい絵は描かないのか、もっと分り易い絵は描かないのか、とか言うのだが(富士山の絵を描け、とさえ言う)、文章を読んで、もっと分り易くしろとか、メッセージを明確にしろとかは言わない。ぼくは、自分が書く文章が、自分が描く絵よりも「内容」として分り易いとは思えない。ただ、これは特に「風の旅人」に書く時に強く意識することだけど、その文章の書き方や語彙によってあらかじめ読む人を限定してしまうことを出来得る限り避けたいと思っている。(つまりそれは、普段文章を読み慣れているわけではない人、文章を読むことを習慣としていない人でも「読み得る」ように書くということなのだが。「内容」に興味がない人が読まないのは、もうこれは仕方がない。)実際書いてみるとこれはとても難しいことで、毎回書きながら、この例えで通じるのか、こんな語彙は普通使わないのではないか、とか思いながら、かなり迷うし苦労する。でも、とりあえず両親が最後まで読み通せて、何かしらの感想があるというのならば、この課題はまあまあクリアしたことになるのではないかと思うのだった。
普通に考えて、原稿用紙15、6枚もの文章を読むのはかなりかったるい。ぼくだって、それなりに面白い文章でなければ、そんなものに最後までつき合おうとは思わない。さらに、ぼくは養老孟司とか茂木健一郎みたいなメジャーな人とは程遠い無名の存在で、つまり名前に誘われて読む人は皆無だと考えてもよい。だからぼくは、雑誌が送られてきて、確かにそこに自分の文章がのっていることを確認したとしても、それを読んでいる人が本当にいるとはなかなか信じられない。以前、友人の画家から、「書いていることが難しすぎる、ああいうことは自分でも制作をしている人にしか通じないのではないか」ということを言われたことがあって、「でも、〈そこ〉をこそ分ってもらわないと,,.」と答えたのだが、「うーん、でも難しいと思うよ」みたいな話になったことがある。「そこ」をこそ分ってもらいたくて書くのだから、「内容」を受けのよい、あるいは分り易いものにかえるわけにはいかない。だからこそ、「文章や語彙」の次元であらかじめ読む人を限定してしまうようなことは、出来る限り避けたいのだ。失礼な言い方になるが、ウチの両親でも読み通せるのならば、そこに多少の希望はあるように思うのだった。(でも、息子の書いたものだから読む、というのは、有名人の書いたものだから読む、というのよりもさらに「強い」動機となるのだから、そこんところはかなり差し引いて考えなきゃいけないだろうけど。)
●この日記に関しては、必ずしも上記のような考えで書いているわけではない。この日記は、自分で感じたことや考えたことを書いておく、あるいは、考えるために書く、という側面が強い。