中平卓馬の写真を見るのはむつかしい

(昨日のつづき)
●それにしても中平卓馬の写真を見るのはむつかしい。展覧会(http://www.shugoarts.com/jp/current.html)の会場に入ってすぐに感じる途方に暮れるような感覚。そのあまりにもくっきりとした屈託のない色彩は、けばけばしく薄っぺらのようにさえ感じられるし、引くでもなく寄るでもないその中途半端なフレーミングは、こちらが、見ることによってそこに入り込もうとすることを拒絶しているかのようですらある。まず思うことは、モノクロの写真とカラーの写真とでは、同じ写真という括りでまとめることが出来ないくらい、根本的に異なるものなのだなあ、という感じだ。いや、そのような一般化はよくないのかもしれない。リー・フリードランダーの展覧会を見てから、中平卓馬の展覧会を見ると、フリードランダーのモノクロ写真と中平卓馬のカラー写真とでは、写真というもののあらわれがまったく異なっているのだ、ということが分ると言うべきだろうか。
あまりにもあっけらかんとした中平卓馬の写真は、それを時間をかけて見ることを拒否しているかのようですらある。つまりそれは、細部に釘付けになるような見方が拒否されている。撮られた対象がどのような場にあるのかを読み取ることが出来るような、文脈としての空間が拒否されている。しかし決して、ある単体や表情がクローズアップされているのでもない。それが、ある場に置かれてあること、空間内にあることを示唆するような写り込みが必ずフレームのどこかにある。(しかしそれは、空間=文脈を読み取らせるほどのものではない。)だからそれを、空間として読み込もうとしても、細部の表情として味わおうとしても、どちらもがすぐ行き止まりになってしまう。
一枚の写真に入り込むこと、時間をかけでじっくりと見ようとすること、を阻止するのは、それが二枚一組で展示されているということにもよるだろう。この二枚に、どのような対応関係があるのかは、よく分らない。しかし、恣意的ではないにしろ、強い必然性があるわけでもなさそうだということは理解出来る。ある組は、写されている対象の表情の対比だったり、ある組は、プリントの色彩の対比だったり、ある組は、色彩の対比というよりは響き合いだったり、ある組は、内容というよりも純粋な画面上の形態のつながりだったりによって、ペアが決定されているように見えた。(もしかすると中平氏にとってのもっと切実な必然性がその組み合わせにはあるのかもしれないが、それは作品を観ているだけではわからない。)いずれにしろ、写真がペアになっていることで、人はそれをある対比として見てしまいがちになるから、視線は一方からもう一方へ、もう一方から一方へと移ることになり、しかしいくら視線を移動させても、それがペアであることの必然性はなかなか見えてこないので、その視線はまた途方に暮れることになる。
時間をかけてじっくり見ることを拒否するかのような写真の前で、それでもある時間、途方に暮れたまま、写真を見るでもなく、見ないでもなく佇むことになる。会場をうろうろ歩き、作品に視線を向け、しかしその視線はある充実した行き先を得られないまま曖昧に漂い、ズレてゆき、ギャラリーの床を見たり天井を見上げたり、ギャラリーの空間全体をぼんやりと眺めたりして時間がたつ。しかしそのようにして時間を過ごすうち、ある時じわじわっと、その写真が見えてくるようになる。
そこで見えてくるのは、これらの写真が示しているのかきわめて単純な事実であるということだ。その単純な事実そのものが、その他の一切の事柄との関係を断ち切って、鮮やかに浮かび上がっているのだ。例えば、石灰岩のような岩盤の上に水が滴り、流れている写真が示しているのは、まさに、岩盤の上に水が流れているという事実そのものであり、それのみである。その単純な事実が、驚くほどの生々しさでそこにあるのだ。あるいは、踏みつけられ半ば枯れている雑草の上に猫が佇んでいるのを背中側から撮った写真が示しているのは、枯れた雑草の上に猫がいるというその状態そのものである。不思議なフレームで林道のような道の土を撮っているような写真が示しているのは、その道の土が、そのような表情をもち、そのような形で固まっているということそのものなのだ。その写真は、では、水はどこから流れてきて、どこへと流れてゆくのか、ということは一切頓着しない。その猫はどこをねぐらにし、どのように食べ物を得ているのかについても、まったく頓着しない。ベンチで眠る労務者風の男が、何故そんなところで寝ているのかという理由については、一切頓着しない。原因や因果関係、来歴や行く末などを頓着せず、それらとの関連を断ち切ることによって、そこにあるその状態そのものを、それのみを、きわめてシンプルに、そして驚くほど鮮やかに提示することが可能になる。それは、思考による遠近法(空間)を欠いた世界であり、あらゆるものが理由もなく、それがそこにあるというだけで「いきなり」あらわれる世界であろう。そしておそらく、写真によってこそ、その「断ち切り」が可能になる。このあまりのシンプルさを受け入れるために、展覧会場でしばらく、途方に暮れる時間が必要になるのだ。
例えば、猫好きの人にとっては、この猫は毛艶がよいからよっぽどよい食べ物をもらっているのだろう、とか、この猫はこの辺りではあまり見かけたことがないけどどこから来たのだろう、とかいう風に、猫を媒介として世界への関心へとひろがってゆくだろう。しかし中平氏(の写真)にとっては、今、猫が枯れ草の上に寝そべるような姿勢で目の前に現れたことの衝撃、その姿そのものへの興味が全てであり、その背後にあるものへの広がりへとは繋がらず、猫が目の前から消えれば、その関心は消えるだろう。中平氏の写真のフレームの不思議な「広がりのなさ」は、フレーム外を排除するというよりも、写真の背後への広がりへの無関心であり、一枚の写真が単体として文脈をもってしまうことへの拒否でもあるだろう。写真が単体として文脈をもつことが拒否されているからこそ、それが後から別の写真とペアになることも可能なのだろう。しかし、ペアになったからといって、そこで文脈が形成されるわけではないところが、面白いところなのだが。