リー・フリードランダーと中平卓馬

●青山のラットギャラリーで、リー・フリードランダー展http://www.ratholegallery.com/exhibition.html。清澄のシュウゴアーツで、中平卓馬展「なぜ、他ならぬ横浜図鑑か!!」http://www.shugoarts.com/jp/current.html
●写真を観ることは難しい。それはおそらく、作品であるより前にひとつの対象としてある。写真は、人の目とはまったく違ったやりかたで世界を見る(示す)。人の目は、世界を決して均質には見ない。写真は、レンズを通った光がある平面に当たった状態を記録するから、画面の全ての場所が同時に焼き付けられている。高速シャッターであろうと長時間露光であろうと、画面の全ての場所に均質な時間が刻まれている。そのようにして焼き付けられた像を、人は時間をかけて見るし、画面の全ての場所に均質に視線をはしらせるのでもない。写真家がシャッターを押す時も、ファインダーによって示されるフレーム内の全ての場所が均質に意識されることはないだろう。しかしカメラは勝手に、像を均質な時間によって切り取るだろう。
例えば画家が絵を描く時、画面の全ての場所に同時に手を入れることは出来ない。ある場所に赤を置き、そして次に、別の場所に青を置く。その順番をかえれば、画面は別の方向へ動いてゆくし、間違えれば破綻する。あるいは、画面の全ての場所に均質に手をいれることもない。ある部分はほとんど手がはいらないかもしれないし、別の部分はしつこく手がはいるかもしれない。そして画家は、画面の全ての場所に同等に注意を払っているわけでもない。勿論、画面の全ての場所に注意が行き渡っていなければいけないのだが、それは決して均質に注意を向けることによって可能になるのではない。むしろ注意のばらつきや濃淡こそが画面を動かし、絵の行く先を導く。
しかし写真の像は、全て同時に、そして均質に成り立つ。(これは、どこかにピントがあっていて、別の場所はピントがはずれている、という「内容」のことではなく、像の生成に関することだ。)そしてそれを見る人(撮る人)は、像の全てを同時に見ることは出来ないし、全ての部分に均質に注意を向けることも出来ない。この原理的なズレが、写真を「作品」であることから常に逸脱させる。写真を見ることは、おそらくその度にこのズレによるショックを受け取るということだ。
特に、画面の隅々にまでピントが合っているような写真を見る時、このズレは嫌でも意識されるほどに大きくなるだろう。リー・フリードランダーは、画面に鏡やガラスの写り込みを入れたり、あるいはテレビの画面などを入れたりすることで、複数のフレームを画面内につくり、それらを「同時には見られない」という状態を示しているのだが、しかし、わざわざそんなことをしなくても、90年代以降に撮られた、異様にピントの合った(かつ、複雑に錯綜する線的な形態をもつ)植物の写真などをみると、写真というのはそれだけで(原理的に)既に「全てを同時に(同等に)見られない」人間の視覚を超えたものだということが分る。それと同時に、これらの植物の写真は、世界はこんなにもとんでもなく充実した精度を持ったものとして存在しているのだということを示す。それは意識(視覚)に過度な負荷を強いて、その負荷が発熱を導き、それが人を釘付けにさせる。しかしその時、人は世界そのものを見ているのではなく、その写像としての写真を見ているのだ。もし、常に世界をこの異様な植物の写真と同程度の精度で感じているとするならば、人の意識はそれに耐えられずに焼き切れて、気が狂ってしまうだろう。写真という媒介を通すことによって辛うじて、人はそれに耐えられるのだろう。
●これはまた別のことだが、やはり、オリジナルなプリントで見るのと、写真集のような印刷物でみるのとは、まったく違うのだということを改めて思う。それはたんに、像の解像度や色彩の鮮やかさということではない。プリントには、印画紙が現像液のなかで「像を浮かび上がらせたその瞬間」の衝撃のようなものが確かに刻まれているように思う。そこには、ある化学的変化が、ほかならぬ「そこ」で起こったという事実の生々しさがあるように感じられる。写真が、決して「映像」には還元されないという感触がある。写真など誰にでも撮れる。シャッターを押しさえすれば、そこに何かしらの像は刻まれる。しかし、その像を浮かび上がらせるためには、フィルムを現像し、それを印画紙に焼き付け、焼き付けられた印画紙を化学的変化を起こさせる液体のなかに浸けるという作業のプロセスが必要だろう。プリントされた印画紙は、その過程を経て像を浮かび上がらせ、その過程に晒された他ならぬそのものが、ここに展示されているのだ、という感触。確かに写真は何枚でもプリントすることが出来るのだが、その度ごとに、光りが焼き付けられる衝撃と、現像液のなかで像を浮かび上がらせるその瞬間の衝撃が繰り返されているのだ。このことは驚くべきことではないだろうか。例えば中平卓馬のカラー写真の色彩は、撮影された対象そのもの色を伝えるというよりむしろ、印画紙が色を浮かび上がらせることの生々しさをこそ、新鮮に伝えているようにさえ感じられた。
改めて、複製芸術などあり得ないのだ、と思った。あるいは、作品とはすべて、ある状態を(その都度新たに)反復させる媒介であるという意味では、あらかじめ複製なのだ、とも言える。