アルフォソン・キュアロン『天国の口、終わりの楽園』

●アルフォソン・キュアロン『天国の口、終わりの楽園』をビデオで。前景に、徹底してジャンルの規則にのっとった、紋切り型の青春モノがあって、後景に、その裏側にある現実的なものの「厚み」を余剰として示そうとする、というつくりは、『トゥモロー・ワールド』とほとんど同じものだ。物語の進行には直接関係なくフレームに写り込むものや、流れを断ち切ってわざとらしく介入するナレーションによって、ジャンルとしての青春モノの物語からは見えてこないメキシコの現実が示される。例えば、終盤、天国の口と呼ばれるビーチでの、主人公たちと地元の漁師とで演じられるひたすら幸福なヴァケーションのシーンで、そのシーンを断ち切って、ナレーションが、その漁師がその後その土地を追われてしまうこと、二年後には漁師をやめてホテルの掃除夫にならざるをえないことを告げる。ビーチのシーンのあまりの幸福さと、このナレーションの内容とは観客の頭のなかでは簡単には重ならず、乖離したまま、しかし後に思い余韻を残す。随所に野心的な長回しがみられるのも、『トゥモローワールド』と共通している。
しかし、『トゥモローワールド』では、前景の物語よりもむしろ、背景の現実的なものの厚みが重要で、それこそが作品を支え、その厚みによってこそ、その前景の物語世界にリアリティが与えられているのに対して、『天国の口、終わりの楽園』では、あくまで前景にある「徹底した紋切り型」としての青春モノの部分こそが魅力的で作品の核であり、背景の現実的な部分は、その幸福さを際立たせる「苦み」を加えるスパイスのような役割に留まっている。(それは、幸福な青春モノにつきものの、「苦い終わり方」と同等の効果に留まるものたろう。)これって、思いっきりベタであまりにお約束通りだなあとあきれつつも、主人公たちのばか騒ぎの幸福さには惹かれてしまう。後景に現実的なものの厚みを示そうという「知的な企み」は必ずしも上手くいっているとは言い難く、いかにも小賢しいやり方だと思いつつも、前景の魅力によって、それもまあいいかと受け入れてしまう。