●『悪夢探偵2』(塚本晋也)をDVDで。何故「2」なのかと言えば、パッケージを見てなんとなく「2」の方が面白そうだったから。今まで観た塚本作品では、ぼくはこれが一番好きかも。
前半、松田龍平三浦由衣の夢のなかに入ってゆくところくらいまでは、すっごく面白かった。ぼくが今まで観たなかでは塚本色がもっとも薄く、けっこう普通にホラーの形式を踏襲しているのだが、それによって逆に塚本晋也の特性が生きているように思われた。どこまでが夢でどこまでが現実なのかよく分からないという形式はよくあるけど、この映画では、松田龍平が常に、寝起きで寝ぼけたままでぼさっと近所のコンビニまで買い物に行った、みたいな感じで存在しているので、夢とうつつとの間をどちらとも言えずにふらふらさまよっている感じが、作品の構造というより「感じ」として、すごくリアルに出ている。松田龍平が夢で見る実家と、実際に訪れる実家の感じがほとんど同じで、全然現実っぽくないというのも面白い。
世界との間に「恐怖」という感情によってしか関係を持つことの出来なかった母(市川美和子)と、そのような母によって殺されかけた記憶をもつ子(松田龍平)との関係がまずある。子は、最近、頻繁に見る自殺した母の夢に悩まされている(遠くの母からの呼びかけ?)。この最初のところで、夢のなかの実家(子供時代の松田龍平、母、父)と、目覚めた松田龍平の部屋、現実に松田龍平が訪れる実家(大人の松田龍平と父、光石研)という三つの場面がぐちゃぐちゃと混じり合う感じが面白い。そこに、目覚めた松田龍平の枕元に、まるで死んだ母が現実にあらわれたかのように、女子高生の三浦由衣が立っている場面がくる、という展開も面白い。実際、市川美和子と三浦由衣は、体が細長く、丸くて凹凸の少ない小さな顔に、顔からこぼれそうな大きな眼という点で似ている。物語上も、母の夢はこの女子高生の訪れを予告していた、というか、夢の母こそがこの女性を呼んだかのようになっている。
三浦は、友人の韓英恵をいじめて、彼女が学校に来なくなってからずっと、彼女が出てくる悪夢に悩まされ、眠れないので、なんとかしてくれ、という(松田は他人の夢に入ってゆけるという設定)。この話から、悪夢を見るから眠らないという『おじさん天国』のおじさんを思い出す。映画全体を「恐怖」という感情の強度が貫いている(支配している)『悪夢探偵2』は、『おじさん天国』のゆるさと裏表というか、相補的であるようにも感じられる(『悪夢探偵2』という映画こそが、『おじさん天国』のおじさんが見ている夢であるかのようだ)。それに、『おじさん天国』が、ゆるーい時空を通じて、最終的にはハードな現実を受け入れるという話なのに対し、『悪夢…』では、恐怖の支配からはじまり、幻想的で幸福なビジョンで終わるという、真逆の展開をもつ。ここで映画は、松田の夢と松田の現実に加え、三浦の夢と三浦の現実も加わり、映画はさらに夢とうつつの間でくらくらと混乱しはじめる。
韓をいじめていたのは三浦だけでなく、他に二人の女子高生(松嶋初音、安藤輪子)も仲間だった。そして、その二人が、次々と亡くなる。二人は、夢のなかで、韓に水を掛けられる。すると、現実上の彼女たちが心臓発作で亡くなってしまう(しかし何故「水」なのか、夢の場面はトイレであるし、塚本晋也の、トイレや風呂やキッチンという水回りへの執着は異様なものがある、子供時代の松田はおねしょをするという設定もあり、恐怖−心身の緊張と、尿道の弛緩−失禁は、塚本の感覚にとって必然的な結びつきがあるようだ)。しかしここで、夢を見ているのは三浦であり、つまり、三浦の夢のなかで、韓が安藤に水を掛けると、現実の安藤が死んでしまう(死んだ女子高生が同じ夢を見ていたかどうか分からない)。ここで、韓は学校には来ていないものの、生きているから、さらに事態は複雑というか、よく分からなくなる。安藤と松嶋を殺したのは誰なのか。韓の生き霊なのか、三浦の夢のなかの韓なのか、夢を見ている三浦なのか、それとも二人のとつぜんの死はたんに偶然なのか。さらに、三浦の夢のなかに侵入した松田が、「二人を殺したのは菊川(韓)ではない、彼女にあるのはたんに「恐怖」であって「憎悪」ではない」とか言うので、益々はっきりしなくなる。二人を殺したのは自らを責める罪悪感(というか韓への恐怖)ということなのか。この映画を支配するのは、夢からうつつ、うつつから夢へと絶えず移行を繰りかえす浮遊感(スイッチが次々切り替えられる感覚)であり、夢もうつつも両方を同様に支配する恐怖の強迫的な強さであって、因果関係はよく分からないままだ。
もう一つ、この映画では、自殺した松田の母(市川)といじめられている女子高生(韓)が、世界と恐怖を介してしか関係出来ない人物として、ほとんど同一視されている(外見上では市川と三浦が似ているのだが、それはルアーでしかなかった)。彼女たちはどちらも、恐怖という感情がそのまま人格化されたような人物なのだ。実際、松田は、韓とをほとんど母と同一人物と見なして接してしている。松田にとってははじめから、三浦のことはどうでもよくて、死んだ二人のことはもっとどうでもよくて、重要なのは韓を救うことであり、韓を救うことがそのまま、自殺した母を救うことで、それはつまり、母と自分との不幸な関係(自分自身の過去)を救うことであるのだ。益々、事態は錯綜し、因果関係はどうでもよくなってゆく。
●とはいえ、後半の展開はあまり面白いとは思えなかった。前半、恐怖によってしか世界と関係できない市川−韓という人物(と、そのような母との関係に把捉されている子−松田)による恐怖が支配する展開があり(恐怖の支配が、世界のスイッチを次々と切り替えて、着地点が見いだせない)、しかし最後には唐突に、ほとんど『A.I』のラストみたいな(実際。『A.I』からとってきてるのだと思う)、母と子との幸福なビジョンがあらわれて世界との間に調停が行われる(この場面は過去−記憶ではなく、現在において創造された記憶であろう)。この二つを無理矢理に繋ぐために、後半の展開があるのだと思うのだが、そのイメージのつなぎ方に、説得力のある密度があるとは思えなかった。ただ、最後に、三浦もまた、市川−韓−松田の「側」の存在となり、それをどちらかというと肯定的に受けとめるところが、ちょっと面白い。
松嶋初音という人は『テケテケ2』にも、「悪い女子高生」の役で出ていて、最初に出てきた瞬間からいかにも「悪い」感じで、とてもよい。三浦由衣も、眉毛とかぼうぼうで、アイドルっぽくもなく、また、ホラーの定型の神秘的な少女、色白、痩身、長い黒髪、白い服という感じでもなくて、ちょっと野蛮な感じが良かった。
●「岬」論、とりあえず最後までは行った。二万字とちょっとになった。たかだか原稿用紙にして五十枚分くらいとはいえ、長い文章を書いている間のプレッシャーというか、気の重さというのがある。それは、書くというよりもむしろ自分が書いたものを読み返すことの気の重さとしてあらわれる。誰に頼まれたわけでもなく、自分で勝手に書きたくて書いているにもかかわらず、そこから逃げる理由ばかり考える。