2022/01/22

●『れいこいるか』(いまおかしんじ)をU-NEXTで観た。すばらしかった。

この映画の最後の30分ちかく。武田暁が卓球場(?)の横で「はじめて逢うたんはここや」と言う場面の次にくる、震災後23年とされる場面はすべて、「現実らしさ」という意味ではまったくリアリティに欠けると言うしかないくらい、幸福な事しか起らない。失明したはずの武田暁の視力が当然のように戻っていて、自動車の運転が出来るまでに回復していたとしても、その事に対する説明や言い訳は一切ない。その理由は、とにかく最後は「完璧に幸福な一日」で終わるのだという「決まり」以外にないだろう。

この、信じられないくらい幸福な事しか起らない一連の流れを実現させることこそが、おそらくこの映画の目的であり、この映画の成否が賭けられた部分だと思われる。リアルでないことこそがリアリティを支えている。いろいろな出来事があったとしても、そのすべてを受け入れることが可能になるような、完璧に幸福な一日が最後にやってくる。だから、この部分は「現実ではない」とさえ言えるのではないかと思う。スピルバーグの『A.I』のラストの少年と母の一日のような、あるいは、いまおかしんじの『かえるのうた』のラストのミュージカルシーンのような場面(その意味でこの映画は『かえるのうた』の続編だとも言える)。この一連の出来事は「夢」であり、冥界=天国での出来事なのだと言ってもいいはずだ。明確にそう描かれてはいないが、この日に限っては、死者と生者とが共存している(武田暁は水族館で成長した「れいこ」と出会い、別れを告げることができる)。

(武田暁が、河屋秀俊と二人で、成長したれいこの姿を見た上で別れを告げることが出来るために、奇跡としてこの日一日だけ特別に視力が回復されたのかもしれない。佐藤宏の力によって?)

それと、時間が流れるということ、というか、いつの間にかするすると時間が過ぎ去ってしまう、という感じ(人はどんどん老いていくし、死んでいく)を、ここまで見事に描いた映画もなかなかないと思った。

(河屋秀俊がDV男に立ち向かっていく時の武器が「焼き鳥の串」というところが、なかなか斬新なアイデアだと思った。)

(今は東北で働いているという河屋秀俊が神戸に帰ってきているその日に、たまたま武田暁と会い、たまたま二人ともその日に予定がなくて、連れだって---亡くなった娘との思い出のある---水族館に出かけると、河屋秀俊が殺してしまったDV男の成長した息子とたまたま会い、その息子が連れていた彼女がたまたま「れいこ」であった、という、ご都合主義にご都合主義を重ねたような展開が、それでも説得力をもつのは、これら一連の流れが「夢」だからであり、「夢」でしかありえないような幸福感に貫かれているからだろう。それは、現実としてのリアルさではなく、人の心の有り様についてのリアルさなのだと思う。武田暁の視力が回復しているのは、河屋秀俊が武田暁の失明を知らないから、なのかもしれない。だとすると、これらは河屋秀俊の見る夢なのかもしれない。しかしだからと言って河屋秀俊の主観ということではなく、河屋秀俊の見る夢が武田暁に対しても作用する、ということではないか。)