小島信夫『寓話』を読み始める。まだ、『暮坂』が半分までしか読めていないのだけど、『寓話』の方を先に読むことにした。「序」の部分を読んで、一体この小説のなかにどうやって入り込めばいいのか、と途方に暮れたが、なんとか読みすすめるうちに、ある部分から(4章が5章あたりから)急に面白くなって、ぐんぐんと読めるようになる。読みやすさという点からいえば、最近の作品よりも随分と読みやすい。しかし、一気に読むような小説ではないように思う。かといって、一行一行を、舐めるように味わい尽くす、という風に読むというのも違う気がする。適度にさらさらと読みすすめながらも、多くの量をいっぺんに読んでしまわないで、適度に中断を入れ、卵の白身に空気を混ぜ込んで膨らませてゆくように、小説の時間なかに自分の時間を混ぜ込むようにして読むのがよいように思った。この小説には、かなり意図的な仕掛けが沢山仕掛けられているのだが、この仕掛けは仕掛けのための仕掛け(仕掛けを読んだり、仕掛けを解いたりするための仕掛け)ではなく、その言葉を書き、生み出しつつある作家に対しても、その言葉を読みつつある読者に対しても、書かれたり読まれたりする言葉のなかに、出来るだけ多様な時間を混ぜて、溶け込ませることで、メレンゲのように膨らんだ独自の「質」を生むために作動する、かくはん装置のようなものとしての仕掛けなのだと思う。