青山真治『レイクサイドマーダーケース』(2)

●『レイクサイドマーダーケース』で、一つよく分からないところがあった。それは、男たちが3人で湖に死体を捨てに行くシーンで、おそらくボートに乗らずに見張り役をしていた鶴見辰吾が吸ったのだと思われるタバコの吸い殻が自動車のタイヤの脇に散らばっているのだが、次に同じ場所をカメラが捉える時、その吸い殻は無くなっている。これは普通に考えれば、事件の謎を解くカギとして観客に与えられた伏線の一つと見えるような細部なのだけど、事件が一応解決をみた(謎が解明された)後に振り返ってみても、この吸い殻の消失の意味は説明されていない。
●この細部の不思議さは、たんに伏線が回収されていないということだけではない。この映画は基本的に役所広司のガイドによって観客が物語のなかへ入ってゆく。つまり、役所が見ること、役所が理解することを、観客も見、理解する。(もし複数の人物の視点から物語が見られたら、「謎」を「隠す」ことが出来ない。)例外は、まだ役所が別荘に着く前に行われている面接試験のシュミレーションのシーン(子供たちが目配せをし、蛾を踏みつぶして殺す)や、森のなかの道を豊川悦司と子供たちが歩いていて、豊川が、俺はお前たちを理解している、とか言うシーンなど、大人たちとは別の「子供たち」のテリトリーを示すシーンだけだと記憶している。しかしこの吸い殻の消失は、役所広司によって見られたものでもなければ、子供たちの存在を示すものとも関係がない。
●役所による主観でも、大人たちによる共同主観でもなく、それとは異質の子供たちの目でもない、「吸い殻の消失」を見ていたものは、あるいはそれを引き起こしたのは、一体誰なのだろうか。映画を観終わった後、この誰のものとも分からない視線は、妙に居心地の悪い違和感として残るのだった。そういえばこの映画は、不自然なほど俯瞰のショットが多かったなどということもそれにつられて思い出し、ラスト近くの、謎が解明される森のなかのシーンでは、木々の間を光が移動してゆく(普通に考えればこれは車のヘッドライトなのだが)美しいショットがあったことなども含め、この映画には、大人たちとも子供たちとも異なる視線で物語を見つめている、別の超越的な視点の存在があるように感じられてくる。そしてこの、誰のものとも分からない視点の存在が、『レイクサイドマーダーケース』という映画をミステリというよりはむしろホラーに近い感触をもつものにしているとも思えてくるのだ。だとすると、この視点はおそらく「殺された者」の視点だということになるだろう。殺された者とは、たんにこの映画で殺された役所の愛人というだけでなく、冨永昌敬が、子供たちもまた、新たな「彼女」を葬るために再び湖に訪れるだろう、と書いている(http://www.netlaputa.ne.jp/%7Ek-moto/VoiceTheLakesideMurderCase.html)、その(過去から未来にかけて殺されつづける)「彼女たち」の視点だ、ということになるのではないだろうか。
●ぼくは昨日の日記で、ラストに示される「死体」は必要なのだと書いたが、この死体の存在は、チャチなCGなどて示されなくても、不気味な視線として映画のなかに既に書き込まれていると言えるのかも知れない。