●渋谷のシネカノン試写室で、長崎俊一『闇打つ心臓』。82年につくられた長崎監督の8ミリ映画『闇打つ心臓』の引用と、その物語を23年後に反復する現在の若者たち、そして、82年版『闇打つ心臓』の登場人物たちの23年後の物語が重なり、それらを束ねるものとして、リメイク版『闇打つ心臓』をつくる、プロデューサーや俳優たちの様子を疑似ドキュメンタリーっぽく捉えた場面がメタフィクション的に導入される。こう書くと、いかにも複雑な構造をもった映画のように思えるけど、そのような構造の複雑化に成功しているとは思えず、この映画の面白さはそれとはちょっと別なところにあるように思う。
冒頭の、82年版(23年前の)『闇打つ心臓』の主演である内藤剛志が、23年前の自分を殴ってやりたいから、リメイク版に自分の役をつくってくれるようにプロデューサーに詰め寄る場面を観て、正直、なんかつまらなそうな映画だと思った。このシーンは、映画内部(虚構内部)での「現実」という位置を占める場面なのだが、その「現実」っぽさの作り方が、あまりにもわざとらしいというか、薄っぺらに感じられたからだ。映画全体を観終わった後の視点で考えれば、確かに、フィクションの「外」にあたる視点が何かしらの形で必要なのかも知れないとは思う。ただ、それがこのような形で示されると、流行を何歩か遅れて(しかもあまり上手ではないやり方で)追っているようにしかみえない。この映画は、冒頭からしばらくの間はかなりかったるい感じで、そもそも、リメイク版の『闇打つ心臓』というこの映画に、何故23年前のオリジナル版が頻繁に引用される必要があるのかが、なかなか見えてこない。(つまり、それが見えてくるまでの「前提」を示す部分がかったるいのだ。)長崎俊一監督の映画をぼくはあまり沢山は観ていないのだけど、カメラの位置やカット割りによって「映画的な」空間をつくり、それを動かしてゆく(つまり、空間を時間的に区切り、それを組み立てることで、時間=空間を立ち上げる)のがそんなに上手ではないという印象があり、つまりそれは、空間的な距離を、ある時間内な配置によって示してゆくことがあまり上手ではないということなのだが、この映画ではまさに、時間や空間上の配置(距離)がぐたぐたになって、時間的にも空間的にも距離感が消失してしまうことで、ようやく面白くなってくるように感じた。
子供を殺してしまったという(あるいは23年前のフィルムという)過去があり、それに伴う罪悪感のようなものがあり、そのような男女が木造のアパートのなかにいるという閉ざされた状況があり、そこに使用不能な風呂場という特別な場所があり、そこから、過去からの呼び声のように聴こえてくる水音がある。この様なフィクションを動かしてゆく要素の配置はきわめてホラー映画に近く、実際この映画の演出は、ホラー映画をなぞっているようにもみえる。しかしホラー映画においてはまさに、それらの要素の時間的、空間的な配分(過去=罪悪感がどのように現在に接触し、そこに浮上してくるのか)こそが演出の勝負となるのだが、この映画では、そのような配置が崩れることにこそ面白さがある。この映画で、時間的、空間的な「配置」を崩すものは、木造の古く汚いアパートの部屋と、そこを包み込む闇だろう。この部屋を徐々に満たす闇によって、視覚的な空間の秩序が消失し、ただ、そこにいる男女の触覚と息づかいによって満たされる空間が出現する。時間も、23年前と現在、若者と中年という測定出来る距離を失い、『闇打つ心臓』というタイトルの通り、鼓動が刻む一定の律動のみがその存在を示すことになるだろう?この映画は、社会との繋がりにおいて浮上するような人物たちを取り巻く状況も、歴史的なリニアな時間も消え去って、それぞれの固有名も歴史的な位置も失った男女が、薄暗闇のなかでまさぐりあう、ただその気配のみを濃厚に浮かびあがらせるのだ。そしてその気配のリアルさが、この映画を支えている。実際この映画は、23年前に半ば素人的な技術で撮られた8ミリの映像と現在撮られた映像との差異も、中年の男女と若い男女との差異も、それぞれの俳優の固有性も、時には男女の違いさえも、木造の古いアパートの部屋とそこを満たす闇によって、とるにたらないものであるかのように溶け合わせてしまう。そのような様を浮上させるところが凄いと感じられる。そこにあるのは、具体的な誰かと誰かとの関係ではなくて、ただ男女が、まさぐりあい、同調し、反発するというざらざらした摩擦の感触なのだと思う。だからこの映画を観ていて感じるのは、(大げさに言えば)太古から男女はずっとくり返しこのようにして互いを求め合いまさぐり合ってきたのだろうという感触であり、もっと突っ込んで言えば、ずっと昔から「親たち」は、このようにしてくり返し「子供たち」を殺しつづけてきたのだろうという感触であろう?(この映画を裏地として支える「子供の虐待死」というテーマは、だから、決して今日的な問題として扱われているのではない。虚構内現実のパートの内藤剛志は「罪と罰」のような言葉を発するのだが、この映画はそのような罪と罰とが成り立つより以前の、いわば善悪の彼岸の神話的地点を示している。ただ、「親たち」は「子供達」を殺したという外傷からは抜け出せないのだが。)言葉で言うとちょっと陳腐かもしれないこのような感触を、この映画は具体的に、木造アパートの暗闇(と、そこにともる蛍光灯の不鮮明な光)の「質」をつくりだすことによって説得力のあるものとして形象化している。23年前のフィルムや、今や中年となった23年前の主演俳優たち(肉がついて丸くなった内藤剛志は、ちょっと『戦場のメリークリスマス』の頃のビートたけしを思わせる)がこの映画に招きよせられる必要があったのは、そこに「距離(としての時間、歴史)」を導入するためではなく、このような摩擦=関係の感触に、ただ「(時間の、神話的)厚み」をもたせるためだったのだと納得する。
しかし、この映画はただ神話的な厚みを、暗闇のなかでの男女の摩擦の感触をのみ浮かび上がらせようとしているのでもない。内藤剛志が23年前の自分を殴りたいと言い、それは結局出来ずに、海岸でシャドーボクシングするしかないことろなどに、内藤剛志の(つまり長崎俊一の)自らの「世代」を刻印しようとする意思、あるいは「世代」間の抗争や継承、つまり「歴史」を見出そうとする身ぶりが感じられる。しかし、この映画ではそのような部分が上手くいっているとはあまり思えない。(そのような部分は、どうしても「昔の前衛映画」という感じになってしまっていると思う。)この映画の終盤が「海岸」へ向かうこと、そこで23年前のカップルと23年後のカップルとが交錯し、そしてそれぞれの「現在」へと分岐してゆく、という展開は納得できる。しかしそこでの個々のシーンについては、もうちょっと粘ってしっかり作り込んでほしかったと思ってしまう。(『闇打つ心臓』は、今年の春、渋谷シネ・アミューズで公開されるそうです。)