スティーブン・ソダーバーグの『イギリスから来た男』をビデオで

スティーブン・ソダーバーグの『イギリスから来た男』をビデオで。テレンス・スタンプピーター・フォンダは、本人の役で出演しているという訳ではないのだけど、現実の世界のテレンス・スタンプピーター・フォンダという人物の実在が、映画のフィクション内部の人物に、映画の外側にまでも拡がりだすような「厚み」を与えるような仕掛けになっている。つまり、映画の内部でテレンス・スタンプが演じる、強盗常習者である人物の過去を示す映像に、実際に彼が若いころに出演した映画(『夜空に星のあるように』というものらしい)の部分が引用されて使われているし、ピーター・フォンダの方は、彼自身ではないにしても、どこか本人を思わせる、60年代(映画のなかで、60年代とは正確には66年と67年のはじめのことだ、と口にするのだが、これは『イージー・ライダー』が撮影される少し前という感じの時期だ)の夢の後を生きているような人物を演じている。映画のなかで描かれる架空の人物を、実在する俳優が演じるということは、もともと、映画の内部に実在の人物を引用するようなものなのだが(特にスターの場合は、実際には彼は誰々だ、ということを誰もが知っている訳だし)、この映画では、俳優の過去の映像や、俳優についての観客の知識=イメージが利用されることで、その事実をよりはっきりと示している。例えばキューブリックは、実際の夫婦(撮影時はまだ夫婦だった)に夫婦の役を演じさせるのだが、それはつまり俳優の「現在」を引用しているのだけど、ここでのソダーバーグは、俳優の(についての)過去から現在に至るまでの記憶(あるいは時間)の「厚み」を引用していると言える。

これは、記憶を巡る映画だと言える。冒頭、かなり複雑に時制が入り乱れているようにみえるものの、観客が物語を見失うことは決してないし、映画は結局、全てが終わった後の帰りの飛行機のなかで事件を回想している、という形式にきれいに納まる。(しかしそれは映画の最後になってはじめて分るのだが。)つまり映画全体が「記憶」であるのだ。(時制の乱れ、多少の叙述の混乱はそこに由来する。)娘の死の真相(つまり、まだ知ることの出来ていない欠落)を探ろうとする、男の過剰なまでの執念は、何度も刑務所を出入りしていた男にとって、もともと娘についての記憶が欠落だらけであり、その記憶の欠落を埋めること(断片を補強し、再構成するこ)こそが愛情だという強い思いを持っていることからきている。男の行動が無謀なまでに大胆であるのは、彼が犯罪のプロであるというだけでなく、もはや現在などどうでもよく、過去の記憶(欠落だらけの断片的な記憶を再構成すること)のなかでだけ生きているような男であるからだろう。(しかしそのどうでもいい「現在」のなかで、2人の友人と出会う訳なのだが。この友人たちとの「友情」が、この映画の最も美しい部分かもしれない。)もう一方の、娘の死の原因であると疑われている男もまた、現在ではなく、過去の記憶の上に大きな屋敷を建てて住んでいるような男なのだった。この、過去に生きている2人の男の記憶が、一人の同じ女(娘)の、同じ言葉、同じ身ぶり(「警察に通報する!」)、によって不意に重なり合う時に、娘の死の真相が明らかになるのだった。

ソダーバーグは、この過去に生きる男たちの映画を、まるで他人の記憶をちょこっと借りてきただけ、という軽いクールな手付きで演出している。(他人のアルバムから、適当に数枚の写真を貰ってきて、それを並べ替えてお話をつくる、みたいな。)おそらくソダーバーグの世代から考えて、テレンス・スタンプピーター・フォンダに特別な思い入れがあるとは思えない。つまりこれは、映画マニアが敬愛する人物を引用してオマージュを捧げるといった身ぶりとは全く異なっている。使える素材を使っているたけだ、というクールな距離感があるのだ。彼は、このいくらでも複雑に難解になりうる素材を、あくまで軽めのB級犯罪活劇という枠を外すことなく仕上げている。決して淀むことのないリズムで映画は進行してゆくのだが、それはひたすら滑らかに、というのではなく、所々に小さな「違和感」や「断層」を幾つも埋め込んでいて、むしろそれによってリズムが活気づけられる感じなのだ。(例えば、ピーター・フォンダの屋敷のパーティーで、テレンス・スタンプが巨漢のボディーガードを軽々と谷底へ突き落としてしまうような、小さな見せ場となるようなシーンを、室内にいるピーター・フォンダを中心にしたショットの窓越しにチラッと写すだけで、ごくあっさり処理してしまうかと思えば、そのパーティーで、テレンス・スタンプピーター・フォンダを撃とうとして歩み寄り、結局ためらって止めてしまうだけの仕種を、何度もしつこいくらい反復して見せたりする。)「驚き」というほどに大げさなものではなく、「へえーっ」とか「そう来るか」という感じの小さな冴えを随所にバランスよく配置することで、映画の持続を支えているのだ。時制を複雑に入り組ませても、聞こえてくるセリフと示されている画面をズラしてみせても、ショットを断片化したり脈略なく短い回想ショットを挿入したりして複雑なモンタージュを試みても、決して説話を混乱させることはないし、マニエリスティックに過ぎてミュージック・ビデオみたいになってしまうこともない。こういう仕事を見せられると、ソダーバーグが今、アメリカの映画業界で重宝に使われているのも納得できる。ぼくは現在のアメリカ映画をそんなに熱心には観ていないのだけど、特に目新しいアイディアや、大きな予算や、話題性などなくても、演出の力だけでここまで面白く、新鮮に観せてしまうことの出来る人は、そう何人もいる訳じゃないだろうと思う。