エドワード・ヤンの『ヤンヤン・夏の想い出』を観直した

ビデオが出ていたので、エドワード・ヤンの『ヤンヤン・夏の想い出』を観直した。

数多くの人物が登場し、その関係が複雑に錯綜しながら展開してゆくのを、切り返しと移動撮影を厳密に避けた、フィックスとパンのみで的確に語ってゆくエドワード・ヤンの演出と言うか作劇術は、もう超絶技巧と言ってよいだろう。冒頭、やけに豪華で広々としたホテルの結婚式場に集まった人々の間の、散発的にあちこちで起こる出来事や複雑な人の流れを、フィックスのショットを淡々と積み重ねるだけでこともなげに語ってしまう「技」(複数のショットの見事なコンポジション)を見せつけられる観客は、もう冒頭部分だけでガツンとやられてしまう。舞台は、豪華なホテルからごくスムースに家族の住む高級そうな高層マションへと移動し、ここまでの短い時間だけで、いつの間にかこの3時間近くもあるやたらと人間関係の複雑な映画に登場する主要な人物のほとんどが登場し、その関係も説明されてしまっている。

エドワード・ヤンという監督が、線的に流れる物語ではなく、複数の場所で散発的に起こるいくつもの事柄が、互いに絡み合い、影響を与え合いながらも、複数のまま進行しゆく様を描きつづけているといことは、誰でも知っているだろうが、この映画では冒頭のごく短い間だけで、まさにそのことがかつてない程の複雑さと、あっけらとられる程の確実さで、滑らかに実現されているだろう。彼の映画において、1つ1つのショットやシーンが素晴らしいことは言うまでもない。ロングショットのなかを、ある強い感情で漲らせることのできる力、複雑に折り重なった空間に向けられたカメラの首を、ほんの僅か横に振るだけで、大掛かりな移動撮影のような効果を実現する力、反映や光の点滅、色彩の効果などを最大限に引き出すことのできる力、決して近寄り過ぎない絶妙な距離から、俳優の演技をじっくりと捉える力。しかし、彼が本当に凄いのは、それら1つ1つのショットを互いに関連づけ、組織化するコンポジションの能力なのだ。エドワード・ヤンの映画は、幾つかのショットのモンタージュによって出来るシーンの積み重ねから出来ていると言うより、無数のショットを相互に関連づけるコンポジション、あるいはあるショットが他の無数のショットに対してもつ錯綜したネットワークによって開かれる、立体的なパースペクティブのようなものなのだと思う。あるイメージと別のあるイメージが「接続される」ことによる効果ではなくて、いくつものイメージがダイアグラムのように「関係づけられる」ことによって拡がる、立体的な、空間的な効果こそが、彼の映画なのではないだろうか。始まりがあって終りがあるような、一本の時間的な流れとしてある映画ではなくて、ある抽象的な空間的な拡がりのなかで、様々なイメージが互いに対応し合い、反映し合い、微笑みを交わし合うような、どこにもあり得ない高次元の空間のようなものとしての映画。(3次元的な空間を表象することとは違う。)だから彼の映画は捉え難く、スクリーンにあらわれるイメージをいくら丁寧に注意深く眺めていても、それだけでは駄目なのだ。それは、いくら目を凝らしても見ることが出来ず、耳を澄ましても聞くことが出来ないような、純粋に抽象的なフォルムとしてあるのだろうと思うのだ。(このような意味で、基本的に切り返しによって映画をつくってゆく小津と、切り返しを一切使用しないヤンの映画とは、実はかなり近いものがあるように感じる。そしてそのような、小津やヤンの映画におけるショットのあり方は、セザンヌの絵画においての、筆致=平面(プラン)に近いものがあるとも感じるのだが。)

では、『ヤンヤン・夏の想い出』という作品は、前述したような意味において、エドワード・ヤンの今までの仕事の最高の達成と言えるのだろうか。

(と、言うところで、明日につづく。)