エドワード・ヤンの『ヤンヤン・夏の想い出』を観直した

(昨日からのつづき、『ヤンヤン・夏の想い出』について。)

では、『ヤンヤン・夏の想い出』という作品は、前述したような意味において、エドワード・ヤンの今までの仕事の最高の達成と言えるのだろうか。確かに、冒頭部分は凄くて、このままブッとばしていったらどんなに凄いことになってしまうのだろうか、と思わせるのだけど、それが一旦落ち着き、物語の本題へと入ってゆくと、すこし話が違ってくる。例えば『クーリンチェ少年殺人事件』においては、とりあえず主人公と言うべき少年は存在したのだが、彼はこの映画のなかで相対的に重要な人物として、スクリーンに映しだされる時間が他の人物より長いということはあっても、決してこの映画がつくり出す世界の中心にいるという訳ではなかった。映画は確かに彼の行う殺人を描いているのだが、たとえ彼が自分で起こしてしまった事件だとしても、彼はその事件の中心にいる訳ではないのだ。物語作者としては、ニコラス・レイなどに近い、むしろ古典的ともいえる悲劇的な感情に親和性をもつエドワード・ヤンだけど、悲劇はある悲劇的な人物を中心に起きるのではなく(その人物に内面化されるのではなく)、世界のなかにある複数の人物の関係によって発生するある力学的な場のなかで、その複数の「力」が結果的に集中してしまったある点において起こってしまうのだった。だからその映画は、決して1つの視点には回収されず、一つの世界像を作図できるような1つの平面など成り立たない、複数の視点、複数の平面の折り重ね、複数の力の折衝としてしかあり得ないのだった。しかし、『ヤンヤン・夏の想い出』においては、明確に中心となる人物がいて、この映画の世界は、その人物を中心として作図されていることが次第に明らかになってくるのだ。これはエドワード・ヤンにとって、新たな展開というよりは、はっきりと後退であり、転向というニュアンスさえ感じられるものだと言える。

ヤンヤン・夏の想い出』は、NJと呼ばれる人物を中心として、ひとつの世界像として作図されたものとしてある。この映画は、1つの家族を中心に描かれているのだが、それは「家族関係」のようなものを描くためではない。ここでの「家族」は、人の人生の様々な時期に起こる出来事を同時に折り重ねるようにして描くための物語の装置として採用されている。そしてこの家族のなかで、最も充実した時制である「現在」を担当しているのがNJなのだった。この映画の主要な登場人物のなかで、彼より年上な人物は彼の義母だけしか登場しない。これは、この映画において彼こそが「現在」であり、彼の今後(未来)は、まだ未知のものとして開かれていると言うことを示している。(義母は、誰もが避けられない運命としてある「死」を表すからこそこの世界に参入できるのだった。)友人たちとハイテク・ベンチャービジネスを興して成功するが、バブルの崩壊で経営は危機的な状態にある、というのも、NJが90年代後半の台湾の「現在」そのものと関係していることを示す。家族を構成する彼以外の人物、義母や妻や娘や息子は、世俗的な「現在」の問題と関わっているというより、人生のある時期における、どちらかというと普遍的な問題に直面している。つまりそれは彼らが現在という時制には存在していないからだ、と言い得る。ここから考えると、NJの娘や息子は、1人の独立した人物であると言うより、NJの過去を現す人物だと言えてしまうのではないか。このことは、NJが昔の恋人と日本で「逢引き」する場面に、娘が友人の恋人と初めてデートする場面と、ヤンヤンが初めて「異性」を感じた女の子を追い掛けてプールにまでついてゆく場面が、見事に重ねられるところで、最も顕著に表れている。この場面では「現在」という時制が弛んで解け、NJの誕生から現在までの「異性」に関する過去が、一挙に出現してしまったかのようにみえる。(この映画のなかで唯一の「移動撮影」とも言える、電車の窓からの丸の内の夜景のショットによって、この一連の「夢のような」場面は導かれるのだった。)

NJは、死と誕生という2つの消失点からほぼ等距離にある、生の最も充実した中間地点にいる人物である。この2つの消失点のうち「死」に限りなく近くにいるのが、今まさに死につつある義母であり、誕生に近いのが、今、人生を始めつつある人物であるヤンヤンであるだろう。この2人は消失点のすぐ近くにいるという意味で、「生」が強いる様々な汚れや世俗から超越した人物であり、生の直中にある人物たちは、常にこの2人の視線によって批評されている。(しかし、ヤンヤンは女の子を追い掛けはじめているので、もうすでに「俗」の世界に半ば参入しているのだが。)そしてもう1人、「生=俗」の世界の外側から「生=俗」に向けて天使的とも言える視線を投げかけている天使的な人物である太田という日本人までも登場する。この3人による超越的な視線が向けられる中心には、当然、「生」の最も充実した時点であるNJがいることは間違いがないだろう。つまり、この映画は、あくまでもNJを中心にして、幾何学的に(1つの平面上に)作図された「世界像」によって出来ているのだ。

ヤンヤン・夏の想い出』は確かに、今までのエドワード・ヤンの作品以上に複雑に錯綜した人物の関係が描かれているし、それらを的確に整理して処理する超絶技巧的な演出も冴え渡っていると言える。しかしそれは、彼が追求してきた、決して1つの視点に回収されることのない複数の中心の折衝によって成立する世界を、映画によっていかに表象するかというということの達成としてあるのではなくて、NJという1人の人物を中心にして1つの世界像を構成し、その中心的な人物のまわりに複雑に他の人物を幾何学的に配置する、ということで可能になったものなのだ。ぼくにはこのことが、エドワード・ヤンにとって、後退だとか衰弱だとかであるように思えてならない。この映画には、例えば小津の映画にあるような即物的な感覚、それは世界を突き放し、また世界に突き放されてあるような感覚のことなのだが、そういう感じがないということが、とても気になるのだ。(簡単に言えば、きれいに出来過ぎ、という感じ。)それに、この映画には、あからさまにエドワード・ヤンエドワード・ヤンを反復している(自己模倣している)という気配も濃厚にあると感じられる。