タルコフスキーの『鏡』をビデオで

タルコフスキーの『鏡』をビデオで。ぼくは基本的にアート系の映画好きだったりするので、たまにはこういう、きっちりと丁寧に作り込まれている上に、全体が作家の意志と美意識でピタッとコントロールされているような、それでいてあくまで「アート」ではなくて「映画」が勝っているようなものを、ヘーッと関心したり、ウーンと唸ったりしながら観ていたいという欲望を抑え切れないのだった。やっぱ、何だかんだ言ってもタルコフスキーはスゲーや、格か違う、という感じなのだ。勿論、全面的に受け入れるという訳にはいかないのだが。

この映画は、「解釈」という次元においては難解なものは何もない。ある1人の男を中心として、3世代に渡るひとつの家系があり、その家系を巡る複数の出来事が、時間的な順序とは無関係に、尻取りのように蝶番となるイメージの連鎖によって次々と移り変わり、示される。この映画には一応現在と言い得る時制が存在するのだが、しかし決して「現在」を中心として過去が回想として構成されている訳ではない。

この映画において、「物質」はとても豊かな表情を持っている。しかしそれは、物質が「このもの」としての即物性を示しているからではない。むしろ、ここにあるこの物が、ほかならぬ「これ」であるという属性ははく奪されている。例えばしばしば画面にあらわれるミルクは、それが撮影されたその時にその場所にあったミルクというのではなく、いつでもどこでも変わらずに普遍である「ミルク」の本質であるかのようなものとして、白く、まさに乳白色に輝いているのだ。ここでは物質が、物質としての豊かな表情を示しながらも、その固有性をはく奪されることで、ほとんど「言葉」のようなものとして機能している。つまりこのミルクは、今、ここにあるミルク(のイメージ)ではなくて、ミルクという物質の永遠のイデアであるようなものなのだ。この映画においては、「炎」や「水(雨)」もほとんど同じように機能している。それらは、即物的な物質の露呈でも、テマティックな表層の表情の戯れでもなく、言葉であると同時に、物質的な豊かさや深さを備えて重たく響いているような、「象徴」としてあるのだ。だからこそ、男が子供の頃に見た納屋の火事の「炎」と、現在時制での、男の息子が庭で焚き火をしている「炎」とが、時間を超えて正確に同一のものの反復として、異なる時間、異なる場所を繋げ、相互に浸透させる効果をもつのだし、だからこそ、現在進行している時間としての今と、現在からみた過去(現在に従属した記憶)というヒエラルキーは成立せずに、あらゆる時間が定位する位置をもたずに漂うようにある、ということが可能になるのだ。

人物も同様で、ここには個人というものが登場しない。男の母親と男の別れた妻とは、別々の人物とは言えず、たんに「女」である。男の子供時代と現在の男の息子も、たんに「男の子」であるに過ぎない同一の存在の反復であるだろう。特定の位置を持たずに浮遊する複数の時間を、その過剰なまでのナレーションによって束ねている中心人物と言える、現在時制での男(男は物語を語る主体というより、辛うじて複数の時間を束ねているに過ぎない存在だ)は、画面には一度も姿を見せない声だけの存在なのだが、ほとんど同一の分身=鏡像=反復であると言える、男の父親が登場するのだ。この映画での反復は、まるでまったく同一なものの反復であるようにみえる。子供時代の男が、母親と共に宝石を売りに行った家で鏡を覗き込むと、そこには(現在の)男の息子があらわれるのだし、男の別れた妻が部屋で鏡を見ると、そこには男の母親があらわれる。ここでは「鏡」という装置が、その反映によって、本来異なる者同士の差異を打ち消し、相互浸透させ同一化するという機能をもっているのだ。勿論、本来、異なるものの反復であるはずの「反復」が、同一性の反復となるときに失われるのは、人物の固有性だけではなく、具体的な「歴史」ということになるだろう。

しかしこの映画には、歴史的な事件のニュースフィルムが挿入されるのだ。第2次世界対戦のフィルム、原爆実験のフィルム、中国の文化大革命のフィルム、そしてスペインの内戦のフィルムを挿入するためだけに(としか思えない)、全く唐突にスペインから来た人物を登場させたりもしている。このニュースフィルムの挿入が、この映画をどれだけ風通しのよいものにしているだろうか。この、唐突な転調のように挿入されるニュースフィルムによる「過去」は、この映画の他の部分の「過去」のように、他の時間、他のシーンへと浸透しようとせずに、そこだけ別の空気を運び込んでいる。例えば、『サクリファイス』においての「核の爆発」は、具体的な画面として全く示されないだけではなく、なんとある「犠牲」によって無かったことになって(リセットされて)しまうのだが、『鏡』においてのニュースフィルムは、最後まで消化されない残余のようなものとして消えることなく引っ掛かっているのだ。しかし、それにしたところで、周囲を取り巻く、強力に相互浸透し合うタルコフスキー的な磁場に埋没してしまいがちであって、微妙なことろではあるのだが。

この『鏡』という映画を、強引に、もっと刺激的なものとして読み替えるとしたら、『鏡』から「鏡」を差し引いてみる、と言うことは出来ないだろうか。例えば、この映画での「男の母親」と「男の妻」とが、同一なものの反復であるというのは、その見分けのつきづらい類似性と、鏡の反映による重ね合わせに保障されているのだが、そこから鏡を引くと、同一性という保障のない、類似による混乱、錯乱だけが前に出てくることになる。つまり、男の母と男の妻は同一のものの反復であるかもしれないし、そうでないかもしれない。同一であるか異なっているのかを最終的に判断する審級が無くなってしまうのだ。そうなると今度はさらに、男の母が男の母である、という同一性までもが危うくなってしまうだろう。そこにあるのはただ複数のイメージが、その都度結びついたり、切り離されたりするという運動があるだけになってしまうだろう。勿論そんな場所では「象徴」など機能しない。しかしそれこそが、リアルなのではないだろうか。以前にもこの日記で引用した、岡崎乾二郎の『ルネサンス・経験の条件』から、同じ部分を再度、引用する。

《たとえばある人物Sがある場所Aで「道で歌を歌っている老人」を目撃し、その後、電車に乗って出掛けた先の場所Bでまた「ランニングをする老人」を目撃したとする。さらに夕刻、彼が自宅附近Cに戻ってきたら、またもや「道端で将棋をさす老人」に出会ったとしよう。Sに、この三つの場所A、B、Cで出会った老人がまったく同一人物のように見えたとしても、にもかかわらずSにはそれを信じることは容易ではない。その可能性は否定しきれないとしても、それはあまりにも非現実的に感じられる。老人か同一人物である保障はどこにもないのである。その可能性は老人が幽霊であることを認めるのと同じくらい困難に思える。これは実際の経験に基づいた話であるが、このような事態は、しかし日常にありふれている。すべて幽霊は結局のところ、微細であれ、なんらかの物質を媒介にしないかぎり、その出現は無視されてしまう。それと同じ程度に、すべての現実的な人物の同一性も、(略)観念に憑かれることではじめて成り立つ幽霊同然の存在であった。よって観念も物質も仮の項目であり、それを結びつけている関係性のみがかろうじて問題たりうる。知覚された事象どおり正確に記述すれば、目撃されたのは三つの異なる時と場所に位置づけられた三人の人物であり、決定不能なまま開かれたそれら三つの項目のあいだの関係である。この三人の人物が一つに結びつけられるのは、それらのばらばらに目撃された現象が、それを目撃したSの行動の時間順序に添わせて理解されようとしたときだけであり、その事象を認識した時間順序と、実際に出来事が生起した順序とが、混同されてしまうときである。人物の同一性などというものは、おおかれ少なかれこうした錯誤を含んでいる。》