新宿ピット・インで、Evan Parker

連日の新宿ピット・イン。今日は Evan Parker(ソプラノ・サックス)。 Evan Parkerの演奏は、昨日のカン・テーファンのような「聞こえてこない感じ」というか「聞きづらい」感じは全く無くて、分り易すぎるほど分り易くて、明解である。しかしその明解さは、ほとんど通俗的というのと紙一重だと言える。冒頭のソロから、いきなり超絶技巧を観客に向けてぶちかましてくれる。有無を言わさぬ循環呼吸とマルチフォニック。しかも、いかにもやってます、というような分り易さ。これを聞いてぼくは、ああ、この人はサービスの人なのだなあ、と思った。物凄いテクニックに裏打ちされた分り易さが、通俗とキワキワのところを突っ走る。このような派手な「掴み」で観客を満足させるような、前に押し出してくるような「ハッタリ」がカン・テーファンの演奏にはない。物凄い音があったとして、それが他の演奏者の音にかき消されてしまったとしても、それがそこにあったということが重要なのだという、超俗的な風情があるのだ。しかしぼくのような観客としては、それをちゃんと聞かせてほしいという思いがある。(つまり、ソロを聞かせてくれ、と言うことなのだが。)その点、 Evan Parkerは、自分は芸人であり、客を喜ばせてナンボだという割り切りがあるように思う。しかしそれが、所々であまりにも見え透いているところが、やや冷めてしまうのだが。

ソロに続いて、石川高(笙)、Sachiko,M、大友良英、の、それぞれとのデュオ。昨日ぼくは、即興演奏をする人は、始めから自分の言葉で喋り、どこへ行っても、基本的に「自分がいつも追求していること」しかやらない、ということを書いたのだが、 Evan Parkerはその柔軟性と引き出しの多さで、見事に相手に合わせて演奏する。しかし、その「合わせ方」が、やや安直と言うか、「分り易過ぎ」なのが気にはなる。例えば、笙とあわせる時に、自らのアルト・サックスの音色を雅楽的(尺八っぽい)音色にしたりするのだ。たしかにその音色変化の技巧は素晴らしく、驚嘆すべきものなのだろうけど、聞いているぼくとしては、そんな「合わせ方」は必要ないじゃん、と思ってしまうのだ。(こういう演奏を聞くと、昨日のカン・テーファンたちの演奏の「聞こえにくさ」が、なにかとても重要なもののように感じられてくる。)とは言うものの、ここでの演奏は皆素晴らしく、特にSachiko,Mによる、不愉快な感じでプツプツと途切れる、ごく小さな音で鳴るサインウェーブの演奏は、ちっとびっくりするくらい新鮮で、Evan Parkerの「分り易い饒舌さ」に対する挑発的な批評になっているように思えたし、それだけでなく、即興演奏が陥ってしまいがちだと思われる、「今、ここ」という時空をむやみに特権化してしまうような感覚(ぼくが昨日、どんな音を出しても結局は「先験的な形式としての時間と空間を共有している」ということに回収されてしまう、と書いたような感覚)に対する批判として機能し得る、現在という時間をブツブツと切断してバラしてしまうような暴力的な気配さえ漂っているように思えた。とても淡々とした演奏ではあるのだけど。

休憩を挟んで、4人全員による演奏。この演奏は、即興演奏として、普通の意味でとても完成度の高い、緊張感の漲る演奏だったように思う。(ぼくのような者がこういうエラそうな言い方をする権利があるかどうかは疑問だが。)単純に滅茶苦茶カッコいいし、もっともっとずっと聞いていたくなる。しかしここで際立っていたのは、メインであるはずのEvan Parkerではなく、その他の3人のメンバーだったように思える。特にここでは大友良英のインプロバイザーとしての感覚が冴え渡っていたように感じられた。途中、何を思ったのか、Evan Parkerが日本風の(雅楽っぽい)フレーズを吹きだした時には、お前、それをやれば日本人が喜ぶとでも思ってるのか、と、さすがにシラけて引いてしまったのだった。(勿論ここでも、音色に幅をもたせ、その幅のなかを微妙に揺らぎながら素早くフレーズを繰り出してゆく演奏は、素晴らしいと言えば、素晴らしいものなのだが。)これも一種のサービスなのだろうけど、あまりに浅はかなサービスは、逆に人を引かせてしまうものなのだ。