01/9/23(日)

日曜日の朝から、テレビをつけていると本当に気が滅入るばかりだ。アメリカが戦争をするのは当然のことであり、それに対して日本が協力するのもまた当然で、それに反対する奴は、平和ボケした、国際感覚の欠如した常識知らずだ、ということがごく平然と、「当然」のこととして語られている。まあ、そういうことを言うのは普段からいかにもそんなことを言いそうな人たちで、その意味ではちっとも驚くような事ではないのだけど、問題なのはそれが語られる場の雰囲気が、はじめからもうそのような意見を当然のものとして受け入れるような空気に支配されてて、それに反対する意見を押しつぶすのではなく、そんな意見は始めから成り立たないものであるかのように(取るに足らないような「特殊な意見」であるかのように)進行していることだ。反論を許さないのではなくて、反論などあり得ないかのようにもってゆくこのようなやり方は、例えばアメリカで行われている「追悼集会」や「チャリティーコンサート」などにも現れている。それらはあくまで「被害者」に対する追悼でありテャリティーであるので、そこでは「戦争」という言葉は語られない。にもかかわらずこれらは明らかに「戦争」へ向けて、「戦争」を正当化するための「感情」を盛り上げようという意図に満ちている(少なくともそれが「報道される」という局面においてはそのような「効果」を期待するものとして利用されている)。しかしそれは「戦争支援」ではなく「追悼」であり「チャリティー」であるのだから、誰もそれに反対できない。(せいぜい、「積極的に参加すること」はしない、と言うことができるだけだ。)メディアはそれらを、各地で様々に追悼が行われている、とか、多くのミュージシャンやスターが「ひとつになって」チャリティーを行っている、とか大々的に報道するのだが、それに対してニューヨークで2万人規模の反戦デモがあった、とか、マドンナは戦争反対という立場を表明している、とかいうニュースはマイナーなものとしてあっさり処理される。(話は少しズレるけど、東京で行われた追悼集会の映像で、「平和」と書かれたステージの上で歌う歌手に、「戦争を積極的に支援」しようとしている小泉首相が拍手を送っているのを観て、「平和」なんていう言葉はたんなる記号に過ぎず、何の力も持ち得ない空虚なものなのだなあ、と、そんなことは知ってはいたが、改めて思い知らされた。)アメリカでも日本でも、放送局や新聞社というのは「国営」ではなく「民間」によって運営されているはずなのにも関わらず、このような場面ではごくあっさりと(恐らく、どこかからプレッシャーがあったという訳でもないだろうに「自主的に」)「国家」に奉仕する機関となるのだった。(つまりそれが、資本制=ネーション=ステートの三位一体ということなのか。)

ブッシュ大統領による「アメリカにつくのか、テロリストにつくのか」という二者択一を迫る発言は、たんに極端な選択を迫っているのではなく、明らかに、「アメリカを支持しなければお前もテロリストとみなすぞ」という、強大な力を背景にした「恫喝」以外のなにものでもない。そのような恫喝が正義と何も関係がないことは言うまでもないし、そういう「強大な力を背景とした恫喝」こそが、テロを生み出してしまう大きな原因となっていることに対する反省さえも、どこにも見当たらないのだ。(勿論、日本はそのようなアメリカの強大な力の傘の下で現在の繁栄を享受しているというのも事実としてあるのだ。)