岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

●確かに「はじめて映画を見る人間」(と言うのは抽象的な概念なのだが)は、そこから何を見たらいいのかわからずに混乱するだけかもしれない。たとえば子供は、実写よりも何を見るべきかがはっきりしているアニメーションを好むだろう。人が映画を観て混乱しないとしたら、「学習」によってあらかじめ見るべきものを知っているからなのだろうか。例えば、シネフィルだったら、この「切り返し」は「イマジナリーライン」を無視している、とか、このフレーミングは「高さ」を強調しているのだ、とか、このシーンで重要なのは「視線の等方向性」なのだ、とか、効率的に画面から読み取ることができるだろう。しかしそれら、主に演出と呼ばれるようなものを的確に読み取ることが出来たからと言って、それらは画面に映っている様々なもののほんの一部でしかなく、それで多少なりとも余裕のようなものを確保することは出来なくて、人は、映画がこちらへと投げ付けてくる、膨大な知覚の束をただ浴びるようにして受け入れるしかないだろう。岡崎氏の理屈によるならば、人がそのようなヒューム的とも言える混乱に耐え、それだけでなく自ら好き好んでその混乱に身を任せようとさえするのは、映画というのが結局(リニアに秩序立って並べられ、始めがあって終りがあるような)「ひとつの時間」によって回収されるからだということになるかもしれない。どのような混乱があったとしても、上映時間の間だけ耐えていれば終わってしまうし、逆に言えば、人はいつでも容易に、現実から引き離された(フレームによってきちんと分けられた)上映時間の内部の混乱に安心して引き蘢もることができるのだ。(未完の映画はあっても、終わらない映画はない。その上、我々はあらかじめ上映時間を知らされていて、どれくらい耐えればよいのか覚悟している。例えば、ソクーロフの『精神の声』のような映画を、わざわざ好き好んで観に行こうとするような人は、当然その上映時間を知っているし、かなりの「耐える覚悟」が出来てしまっている。)

ここで、ほとんど遠い昔の伝説のようになってしまったヴェンダースの体験を思い起こしてみる。パリで、ほとんど人に会うこともせずにシネマテークに通い詰めて、年間に何千本という映画を観たという伝説。そのような非社会的な引き蘢りのような生活のなかにいる時、個々の映画作品の上映時間や始まりや終りなどほとんど無効になって、どこで映画が終わっていて、どこで生活がはじまっているのかさえ定かではないような生活のなかにいる時、もはや映画は「ひとつの時間」には支配されておらず、映像も生活も時間と場所を失った切れ切れの断片にまで解体されているのではないだろうか。このような時に始めて、映画は「今ここ=リアルタイム」という現在とは別種の「現在」、想起が別の想起へと限りなく連結してゆくような、「確定しえない場所/時間」としての「現在」を可能にするのだろうか。(しかし問題なのは、そのような引き蘢りによって可能になった《「確定しえない場所/時間」としての「現在」》を、どのようにして再び社会的な時間/空間に接続することで出来るか、という点にあるのだろう。それを可能にするもののうちのひとつが、何かを媒介する物質である「作品」ということになると思うのだ。人は「時間」そのものを交換することは出来ないが、それが媒介されている物質を交換することは出来る。そこで例えば映画という作品の制作に向かうヴェンダースは、再び「ひとつの時間」と出会い、それと格闘しなければならなくなる。)

●『A.I』では、物語の途中でいきなり二千年という時間が流れ、そのことが「~だといいます」という風に訳されるような、過去形で伝聞(間接話法)のナレーションによって告げられる。この、一体いつ、誰によって語られているのか分らないようなナレーションは、それを「語りかけられている」我々観客自身をも、どのような時間、どのような場所にいてその語りを聞いているのかを混乱させる効果があると言えるだろう。この時観客は、具体的な映画館という場所、上映時間という時間からふっと浮き上がって、自らの所属している時制を見失いかける。このとき、経過する時間が二千年という中途半端な時間であることは重要であると思われる。二千年という長さは、人間のライフサイクルを基準とした時間、例えば何世代後とか言うようなもので測るには長過ぎるし、かと言って、あの星から地球まで光が届くのに何万年かかると言う、天文学的な時間として測るには短過ぎる。ロボットであるデビッドの形が崩れてなくなってしまう程長くはなく、しかしその間に人類が滅亡していたとしてもおかしくない位には長い。人類は滅亡していても、地球がなくなっていることはないだろうという時間。永遠というには短過ぎるけど、人間の実感として捉えるには長過ぎる。

奇妙なナレーションと二千年という何とも捉えにくい時間の経過によって、その後の物語の時間は大きく変容を被るだろう。それは、物語の内部では決して幻想などでない、リアルな現実の時間であるのだけど、しかし人間が存在した頃のあらゆる現実とは切り離されて、ポッカリと浮遊してるような時間である。デビッドが母親と過ごすあの「1日」など、どのように捉えたらよいのか全くわからずに途方に暮れてしまう。それはほとんど純粋に抽象的な1日と言うしかないような時間ではないのか。(最早人類は滅亡していて、自らを再生産するロボットしかいないのだから、そこでは人間が感じているような「人間を基準とした時間」など流れてはいない。その場所に人間の記憶をもった唯一の存在であるデビッドが、「母親と過ごす1日」という人間的な時間を生じさる訳なのだから、その時間は未来の世界において明らかに「浮いている」はずなのだ。)なだらかに連続する時間から切り離されて浮遊したスクリーン上の時間を、具体的な時制を見失ってしまった観客が眺めている。この時恐らく、ヴェンダースがくる日もくる日も、つまり今日がいつかも分らないような状態でスクリーンに向かっている時に見ていた、それがどんな映画のどのような場面であるのかも分らなくなってしまっているような映像の断片に近いようなものを、確かに目にしたのではないだろうか。あの、何ともグロテスクで気味の悪い「母親との1日」。

(ここまで長くなってしまったので、ヤケクソでさらにもう少しつづく。)