岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

(昨日からのつづき。)

●岡崎氏は『歴史とよばれる絵画』を、小林秀雄の『無常という事』の冒頭に引用されている『一言芳談抄』の一節から始めている。それは中世、「比叡の御社」でひとりの若い女が巫女になりすまして、深夜一心に「どうだろうとこうだろうと」とうたいつづけている様を、この文の話者が想起している場面である。そしてこの一節を引用する小林秀雄が同じように比叡のあたりをぶらついている時に、ふとこの一節が思い出されたこと、ここで「思い出す」ことが、その時小林の目が捉えていたであろう「現在」の比叡の光景と同様に「現在」に属する事柄である、ということが指摘される。しかしここで小林が「思い出し」ている事柄の内容は、中世の女が実際に一心不乱にうたいつづける姿そのものではなくて、それが書かれている文であり、その文が視覚化されたものとしての《古びた絵巻物の擦れざらついた絵づら》であるのだった。つまりここで「想起」することの「現在性」は《あくまで現在に留まりつづける歴史の物質性、より正確にいえば、書かれ(描かれ)て残された物質のもつ媒介性》によって保障されているのだ、と。

周囲の枝葉末節な事柄の対応に忙しく、また、賢しらな観念に掴まれてしまっていて、今ここと言う時制に拘束され、「過去から未来へと餅のよう延びた時間」という考えに閉じ込められた人間に、「自分が生きているという証拠だけが充満し」、「余計なことは何一つ考えなかった」と小林が述べるような充実した経験を可能にするのは、ただ《({「かつて一心に何かを思う者がいた」と思い出す文のありさま}をまざまざと思い出した)ことを思い出す》という、想起が別の想起へと幾重にも連結してゆく作用であり、その作用を支えているのが、現在に残されている物質の媒介性、つまり物質に物の怪(=幽霊)が宿り、その物の怪が何度も回帰してあらわれる、という反復性なのだ、と岡崎氏は書く。メディウムとして何かを宿した物質の効果によって、想起と想起が次々と連結してゆきリフレクションを増幅させるというこのような作用こそが、岡崎氏の著作『ルネサンス・経験の条件』によって描かれた、「自分の見ている青が自分の見ている青と同じかどうかすら確かめることができない」ような経験、つまり「他者と共有できないどころか、それに対応するいかなる外的対象も持たない経験、外在的な徴も差異もいっさい持たない経験」というべき「芸術という経験」が可能であるための条件のひとつとしてあると言えるだろう。(そのような経験は当然、《数えることも比べることも取り替えることも出来ない》。)

●ところで、岡崎氏にとって映画とは、ただ「周囲の枝葉末節な事柄の対応に忙しく」追われるだけで、しかも結局「過去から未来へと餅のよう延びた時間」に収斂されてしまうものであって、つまり何かを想起する余裕を与えられないものとして否定的な対象ではなかったか。以前岡崎氏が、ゴダールの『女と男のいる舗道』について書いた『無関係性あるいは非同期性を考察するための差し当っての注意』という文章から、いくつかランダムに引用してみる。

《映画から押し寄せる色、音、会話、それぞれにまともに対応することは不可能である。ただ受動的に受け流し、ひたすら待つこと。やがて時がすべてを解決する。むしろ、その映画の作る時間に身をまかせる術の方を体得すべきである。しないかぎり我々はそもそも映画が構成するはずの動きをも感知しえない。》《つまり映画がひとつに見えるのは、映画が他ならぬ、ひとつの時間というトリックを援用するからに他ならないというわけである。系列の中の系列、何ものも逆らえないオーダー。不可逆的な時間---映画はすべてをこの時間に帰結させ、時間にすべてを流し込む。》《はじめて映画を見る人間、彼らが驚くのは何だろうか? というよりも彼らは何を見、知覚し驚いたというのだろうか? 実のところ、彼らは何も見てもいないし知覚もしていない。彼らはただ耐えているだけである、時間の過ぎゆくのを。》(『無関係性あるいは非同期性を考察するための差し当っての注意』)

つまり岡崎氏によれば、映画を観るという経験は、心を空っぽにして、目の前に明滅する光や聞こえてくる音や言葉が押し寄せてくるのを、ただ受動的に受け入れつつ、時が過ぎてゆくのに耐えるしかない、という事であって、それは一遍による和歌、《花はいろ月はひかりとながむれば/こころはものを思わざりけり》のような世界である。(そのような世界に、「物語」や「スペクタクル」を導入するために、「シンクロニシティ」というトリックが用いられる、と言う。)映画は、その内部に「現実の時間」を含んでしまっていることによって、そこで何が起きようが結局、現実としてある上映時間によって回収されてしまう(いかなることが起きようと時間が経てば終わる)し、だからこそ常に今ここという「現在(リアルタイム)」に縛られ、過去から未来へと進んでゆくというような「時間=歴史」から逃れることが出来ない。映画はそれ自体が、現実の「今ここ」から外れた「過去」の反復であり「想起」なのだが、その「想起」のあり方が現実の時間という形式によって規定されてしまっているものであるから、その想起がそれ以外の別の想起へと接続され得ないのだ、と。(岡崎氏によってここで示される映画の可能性、リアルタイムという幻想を解体する可能性とは、1人1人の人間の映画を観るという行為に、映画の組成の権利を委ねてしまう、ということだ。つまり、ぶらっと途中から映画館に入り、途中で出てしまう、とか、ビデオのポーズボタンで映像を一時停止にしたり、同じ場面をスローにして何度もくり返し観たりするという、1人1人の身勝手な行為が、映画を現在=リアルタイムから解放するのだ、と。)

では、岡崎氏に多くの刺激を与えたと思われる『A.I』は、そのような映画のあり方を、どのようにして裏切っているのだろうか。

(今日はここで、でもまだつづく。トホホ。)