京都芸術センターの岡崎乾二郎について、うだうだつづく話

(つづき、京都芸術センターの「岡崎乾二郎・岡田修二」展について。)

●岡崎氏の彫刻について。展示されていた、リテラルに見れば大きな「うんち」のように見える4点の彫刻作品は、全て、2つの部分に分けられる基本的な要素(2つのマッス)が、ねじれをくわえられながら互いに貫入しあっている、という構造で出来ていると思われる。そのうち2点は、横たわっていて、横に伸びてゆきながらねじれが加えられており、あとの2点は、立っていて、上へと向かってねじれが加えられている。このような空間の作り方は、彫刻としてはむしろオーソドックスなもの(立ったり、横たわったりしている人物像を容易に思い出すことができる)で、古典的とさえ言えるだろう。にもかかわらず、これらの彫刻の特異な点は、作り込まれた細部の形態や、物質のもっているニュアンスなどの魅力に、ほとんど依存しないで成り立っている、という点にあるだろう。繰り返すが、これらの彫刻はミニマルな形態ではなく、ほとんど古典的と言ってもいいようなオーソドックスな空間を形成している。それは例えばマティスによる横たわる裸婦像のブロンズ彫刻を思わせるような魅力的な空間であるのだけど、マティスの彫刻では、そのざっくりとした大づかみの空間把握を説得力のあるものにしているのは、ほかならぬマティスの手による「触覚」によって包み込まれ、押し付けられながら、手探りで徐々に作り込まれていった細部の触覚的な形態の輝きによっている部分が大きいのに対して、岡崎氏の彫刻は、ほとんど岡崎氏の「手」によって触れらることにで形作られたという感じがしない。それはまるで、一塊の粘土を、グーッと引っぱり、ギュッとひねって、ググッと押しつけ、いくつかの部分をザックリ切り落として、ハイ、もう一丁あがり、という感じで、ほとんど「時間をかけずに」サクサクッと作られたように見えるのだ。(実際に、どのような手法によってつくられたかは、彫刻の制作技法についてあまり詳しくないので何とも言えないのだが。)だから、これらの彫刻作品も絵画作品と同様に、制作における「時間の厚み」というものを、そして、制作上の「身体性」の関与というものを、ほとんど感じさせない、という意味で共通していると言えると思う。(念のために付け加えるが、これは実際に制作に時間がかかっていない、とか、身体による関与が希薄である、ということを必ずしも意味しない。それらをことさら「見せる」ことをしていない、ということなのだ。)

細部の触覚的な作り込みや、表面の仕上げの丁寧さは、その物体=彫刻がそのような形になるまでの「試行錯誤」の時間や、身体が物質に対して関わった度合い、それがそのようなものになるまでの労力の量、等を示してもいるのだけど、岡崎氏の彫刻はそれをほとんど感じさせず、リテラルに見ればあまり手をかけられていない粘土がドーンと置かれているようにしか見えない関わらず、そこに古典的と言ってもいいようなオーソドックスな意味で魅力的な空間を出現させてしまっている、という訳なのだ。

●岡崎氏の作品は、作品が成立するための試行錯誤の時間の厚みや、身体の関わり、あるいは素材となる物質の物質としての魅力やニュアンスのようなもの、それらのものを「見せる」ことによって、作品を作品として成立させ、魅力的なものにするということに対する、強い禁欲があると言える。(それが意図的な禁欲であることは、カナダ大使館で展示された、ふと禁欲を解いてしまったような「豊か」で「ペインタリー」な作品群によって証明されてしまった。)そのことが、いわゆる「美術ファン」から、頭でっかちで薄っぺらな作品だという評価を受けがちなことの原因でもあるのだろうが、しかし、もはやジャンルというものの安定性に頼ることが出来なくなった美術が(安定したジャンルというのは、実は社会的な階層が安定していることによって保証されているものなのだった)、ジャンルの歴史によって保証された豊かさに頼らずに、この場にある貧しさのなかから「意味」のある作品を産出するには、このようなやり方しかないのだ、というのが岡崎氏の考えであるのだと思う。ほとんど構造だけで出来ているような貧しい作品が、その構造の複雑さによって、たんに「構造」であることを超えた固有性をもった「作品」たりうる瞬間こそが、ここでは目指されているのだ。岡崎氏の作品が、たんにリテラルな読みでは理解できないのは当然のことだが、その構造を読み込むだけでも充分ではなくて、むしろ構造が構造たりうる「地盤」そのものが、ぐらついて、横滑りしてしまう時に感じる、ズルッという感覚にこそ、その作品の意味があり、感情かあるのだと思う。それはまるで、宇宙の果てはどこにあるのか、とか、時間の始まりと終りはどうなっているのか、とかいうような、決して答えることの出来ない問いにぶち当ってしまったときに感じる、くらくらと目眩がするような「不安感」を観客に強いるものであり、その「不安感」こそが、岡崎氏が芸術による「経験」と呼ぶものにほかならないのではないだろうか、と思う。