京都芸術センターの岡崎乾二郎について、うだうだつづく話

(昨日からのつづき、京都芸術センターの「岡崎乾二郎・岡田修二」展について。)

岡崎氏の絵画作品の構造は、そのタイトルによってある程度は示されている。例えば、今回展示されている作品中で最もシンプルなタイトルは、3つの文によって構成されている。『(A)2~3日中に、お返事をうかがえますか。(B)折り返し電話を下さいといって下さい。(C)というのも子供のときは、友達に電話なんてかけませんでしたから。』この3つの文は、普通の意味では「意味」が繋がらない。(A)と(B)とは、普通に意味が繋がるように思えるのだが、(B)から(C)への移行は「というのも」によって接続されているとはいえ、滑らかなものではない。しかし、「意味」という次元ではスムースに繋がらないとしても、(B)と(C)とは、ともに文中に「電話」という単語を含んでいるという共通点をもっている、という事では、確かに繋がっているのだ。つまり、この3つの文はとりあえずは繋がってはいるのだが、(A)と(B)との繋がりを保障する「意味」の地盤と、(B)と(C)との繋がりを保障する「意味」の地盤とは異なってしまっているのだ。だからこの3つの文をつづけて読んでゆくときに読む者が経験するのは、3つの文の連なりが表現しようとする「意味」の内容ではなくて、「意味」を成立させている「地盤」がぐらつき、横滑りしてしまうということがらなのだ。そしてそのような地盤の横滑りを経験してしまうと、最初はスムースに意味によって繋がっているように思えた(A)と(B)との繋がりも、実はそれほど自明なものではないということが判明し、そうなると今度は3つの文がそれぞれバラバラで繋がりのないもののようにも思えてくるのだ。つまり、(A)と(B)という二つの文を結びつけ、(B)と(C)という二つの文を結びつけているのは、予めその文に内在されている意味によってではなくて、たまたま並んでいるに過ぎない3つの文を、ひとつづきのものとして読み込もうとする、読む者の「読む」という能動的な行為によるのだ。

岡崎氏の絵画作品において、その「物理的には同一平面であるような場所」(つまりカンバスの表面)に、全くの無秩序のようにも、厳密な秩序をもっているようにも思えるやりかたで飛び散っている、型紙によって刳り貫かれたような無数の色斑たちは、簡単に言ってしまえば、上記のタイトルに含まれる一つ一つの文のようなものと言えるだろう。つまりそれらのもの全てを一つの秩序だったパースペクティブのもとに眺めることは可能ではなくて、どれかとどれかとどれかを関係づけて観ようとすると、かならず別のどれかが、その関係づけには納まらないものとして、目にはいってきてしまう、という状態が非常に複雑なやり方で仕組まれているのだ。だから、その「作品」に目を向けている間じゅうずっと、次々と新たな読みを発見し構築しては、それが壊れてゆくという時間的な過程と、複数の互いに矛盾する「読み」がズレながら、闘争しながらも共存している状態を、実際にはあり得ない重ね合わせによる「虚」の空間として、瞬時に空間的な知覚として把握するという過程の、二乗の次元の異なる「読み」を実践することが強いられるのだ。

(もう少し、つづく。)