京都芸術センターの岡崎乾二郎について、うだうだつづく話

●14日に、京都芸術センターの「岡崎乾二郎・岡田修二」展を観てきた。

●先日、友人(画家)と話をしていて、松浦寿夫の作品の話になり、松浦氏の作品を印刷された図版でしか観たことがないという友人が、図版で観ると結構いいように見えるんだけどどうなの、と聞くので、センスはいいと思うんだけど絵具がナマなんだよねえ、と答えたら、ああそうか、それでどんな感じかよく分かった、と納得していた。ここで使われた「絵具がナマ」という言い方は、ある程度、近代以降の絵画について実践的な教育を受けた人にはとてもすんなり通じるような、ある種の業界用語と言うか「隠語」のようなもので、たんにチューブから出した絵具をそのまま使っているという意味ではなくて、画面に乗っている絵具の色彩やテクスチャーなどの使用が、大筋では妥当なのだけどイマイチ正確さに欠けていて、画面上で成り立っている色彩として見えるよりも強く「絵具」として見えてしまう、と言う程度の意味なのだ。このような言葉は、ある感覚を共有している人たちの間ではとても伝達効率が良いのだけど、実は多分に感覚的でいい加減に使用されていて、それが使われる場面や、それを使う人などによって、「意味」にかなりのブレが生じていて、すんなりと通じはするものの、本当に正確に伝わっているかどうかはアヤシイものだ。しかし、それでもそのような感覚的でいい加減な言葉でしか伝達しようのない「何か」というものが確実にあって、例えば美大を受験する学生にデッサンなどを教える予備校では、このテの、いい加減で曖昧で感覚的で不正確な言葉ばかりが飛び交っていて、初めてそこを訪れた高校生などは何のことやらチンプンカンプンなのだけど、そのうちそのような言葉を何となく使えるようになって、それとともに実際に絵も描けるようになってゆく訳で、そこで言葉が伝達されると同時に、確実にある「技術」も伝達されている訳で、つまり訳の分らない言葉の訳の分らない使用があるだけなのにも関わらず、そこにはある種のコミニュケーションが確実に成立してしまうのだ。絵具がナマだ。絵具がモノについていない。絵具が濡れていない。形がブカブカだ。調子が汚い。バタバタしている。空間がたっぷりしている。等等。これらの言葉は、事態を正確に分析、描写している訳ではなくて、半ば作品の状態に対する描写や批評であるのだが、半ば、実際に描いてゆく時の感覚やコツのようなものの指摘や伝授だったりもして、それらがどの程度の割合で混ざり合っているかは、その時その時で全く違ってしまう。もともと「技術」などというものはそのようにしてしか伝えられないものだし、それで確実に伝わってゆくなら別にいいではないか、とも言える。もし画家という存在が、単純に「職人」として「技術者」として存在できるのならば、それでも一向に差し支えないのだが、しかし少なくとも近代以降において画家は単純に技術者であるだけではなく、厄介なことに「芸術家」だったりするのだ。つまりそのような感覚的で曖昧な言葉は、技術者同士の会話としては充分に有効性をもつのだが、それをそのまま批評や分析の言語としては使えない、ということだ。にも関わらず、作品を出来るだけ正確に分析しようとしたり、突っ込んで批評しようとしたりする時、どうしてもそのような言葉でしか言えないような「何か」にぶつかってしまうのだ。しかし、そのような言葉を使用している限り、その批評なり分析なりは、ごくごく限定された、ある「感覚」を共有する人たちの共同体の内部の言葉としてしか機能出来ない、ということになってしまう。

例えば、絵画的な無意識とか、ペインタリーなものとか、そういう言い方でしか言えない何かが確実にあることは事実だし、そのようなものに魅了されていなければ、誰もいまどき絵画などに関わろうとなどしないだろう。しかしもう一方で、ペインタリーな感覚などというものが、歴史的にごくごく限定された「感覚」でしかないことは誰でも知ってはいる訳だ。だとしたら、ペインタリーな感覚にいまどき魅了されているなどという者は、たんに懐古的な絵画マニアに過ぎないということになってしまうだろう。しかし、ペインタリーな「感覚」は歴史的に限定されたもの、懐古的なものに過ぎないとしても、その「感覚」が我々に与えてくる、あるいは強いてくる、「経験」というもの、その「経験」の強度と言うものは、ただ「懐古的」と言って済ませてしまえるものでないのではないか。そのような「経験」は、単独的であると同時に普遍的であるようなもの、あるいは、単独的であるからこそ普遍的だと言い得るようなもの、としてあるのではないだろうか。だとしたらそれを証明するためにも、ペインタリーな「感覚」抜きにでも、ペインタリーな「経験」を構成できなくてはならない、ということになる。恐らく岡崎乾二郎の絵画作品、絵画実践の、恐ろしく難解で困難で刺激的な歩みは、このような認識から始まっているようにぼくには思えるのだ。その時、例えば「絵具がナマなんだよねえ」というような、技術者にとっては便利で伝達効率のよい言い方を、批評的な言語においてだけでなく、作品を制作する実践的な「感覚」の次元においても一掃することが強いられてしまうのだ。

●画家が自らの身体を用いて作品を制作する時、その制作された絵画は画家の身体性の刻印が強く刻まれたものになるだろう。単純に「手癖」とか「利き腕」によるストロークの違いとか、身体のサイズとカンバスのサイズの関係などから、もっと抽象的なものまで、作品には画家の身体が様々な様相で貼り付けられ、織り込まれている。それは、ペインタリーな絵画がたんなる「視覚性」を超えたところで人を引き付け、その情動を深い部分で揺さぶる大きな要因のひとつとも言える。しかし岡崎氏はまずそれを切断しようとする。おそらく岡崎氏の絵画にみられる形態の多くは手によって描かれたものではなく、型紙のようなものをつかって、ペクッと絵具を画面に貼りつけるようにして描かれたものだと思う。多分これはマティスの貼り絵から発想されたやり方だと思うのだが、このようなやり方で描かれた形態は、手で描かれたものとは全く異なるエッジの立ち方、とてもクールなエッジになる。それと同時に、手で描くとどうしても無意識のうちに画面の大きさのなかでバランスをとるような形態にしてしまうのだが、型紙の使用によって、「画面全体との関係で成立するような細部」ではなくて「それ自身で独立してある細部」を作ることができる。このことで、あらかじめ「画面全体」を想定することなく「それ自身で独立してある細部」の反復や変奏のくり返しとして制作をすすめることが可能になるのだ。これはとても大きなことで、絵を描く画家は、どうしても最初からそのフレームが見えてしまっている(特定の大きさのカンバスを目の前にしている)ことから、巨視的な目で見たバランスのなかでの制作、言い換えれば目的論な進行の制作にしばしは陥ってしまうのだから。(例えば、非常にデリケートな色彩の操作をするロスコの、しかし図像的な単調さは、このことからきていると思う。)

型紙の使用によって、同一形態の、異なる色彩、異なるテクスチャーでの対位法的な反復が可能になるのだが(浅田彰氏などはこのことを強調するのだが)、これはたんに手方の問題に過ぎず、それほど本質的なことではないとも言えるのだ。それよりも、手で描かれた形態=色面はどうしても、どこかから塗り始められどこかで塗り終えられたという「時間」を感じさせるのだけど、型紙によってペタッと貼りつけられたような形態は、まるでそこにパッと出現したみたいで、時間をあまり感じさせない。このことが岡崎氏の絵画に独特の速度感、いわば「速度が無いことによる速さ」とも言うような速度感を産み出していることの方がずっと重要だろう。実際に作品を制作するには勿論時間がかかるのだけど、それでも岡崎氏の絵画は一瞬にしてパッと出現したように見えもするのだ。だが、さらにしかしをつけ加えれば、一瞬にして出現したかのように見えるその絵画を、一瞬にして知覚することは出来なくて、それを実際に読み込んでゆくにはとても時間がかかるような複雑な多様態でもあるのだ。ただ、決定不可能性によって永遠に読みつづけることを要求するというだけならば、それこそ悪しき意味での「ポストモダン」的な作品でしかない訳だし、ぼくがいままで岡崎氏の彫刻作品は素晴らしいけど、絵画作品に対してはどうしても保留せざるを得なかったのは、まさに岡崎氏の絵画作品がそのような「ポストモダン」的なものに陥っていると思われたからなのだが、彫刻作品が、常に差異を産出しつづけ、結論を先送りにして読むという行為を持続させつづける装置であると同時に、そこに「ズレ」そのものが、まるで「断層」のように目の前に出現している様を瞬時に察知できるような「物」として存在しているようにも感じられることで素晴らしい作品であるのと同じように、今回、展示されている絵画の何点かは、その「速度が無いことによる速さ」によって、素晴らしい作品たり得ているようにも見えるのだけど、それにしても岡崎氏の作品は、安易に「素晴らしい作品」だなどと言って簡単に済ましてしまうにしては、あまりにも複雑で、難解で、刺激的であるのだった。

(もう少し、つづく。)