●多少なりとも評価できる「質」をもっていると思われた作品について、書いてみる。
●まずピピロッティ・リストの作品。薄暗く設定された部屋のなかを、上から垂らされた微妙に織りの異なる数種類の半透明のレースの布によって複雑に折り重なるように仕切って、迷路のような空間(しかし半透明なので部屋全体が見渡せもする)をつくり、一番奥の壁にビデオ・プロジェクターによって淡い映像が投射されているもの。この作品でプロジェクターからの光は、幾重にも重なった半透明のレースを通過して、そのレースたちに僅かな反映を残して奥の壁に至り、まるでよく晴れた日の光が水たまりか何かに反射して壁に当ってゆらゆらゆれているようで、とても美しいのだ。もう一つ、ユラリア・ヴィルドセラの作品。これは天井から床へと投射された映像(大勢の若者たちが集まって、何かワイワイやっている)が、あらかじめ床に置かれている大小、形ともに様々な鏡によってさらに反射して、壁に、断片化された映像が鏡の方にあわせて、バラバラに砕けて飛び散ったみたいに映っている、というもの。この二つの作品は、別にコンセプトがどうのこうのということではなく、だだっ広い場所にがさつに作品がドカドカ置かれていという印象が強いなかで、他の作品に比べて飛び抜けて美しくて繊細な空間をつくり出していた、と思えたものだ。ヴィルドセラの作品などは、悪く言えばほとんどワン・アイディアだけで出来ているとも言えるのだけど、実際にそこに現れている空間の美しさが、作品を、アイディアを遥かに超えたものにしている。このような繊細な美しさを、「ただキレイなだけじゃん」とか言って馬鹿にする奴をぼくは軽蔑する。(あと、フロリアン・クラールによる、立体的な地形図をスクリーンとして、そこにプロジェクターからの映像が投影される作品の美しさも忘れ難い。)
●そのような繊細さとは全く違っていて、単純であることの暴力的なまでの力強さを示していたと思えるのが、アデル・アブデスメッドの作品だ。ただ、部屋の隅に小さなモニターが置かれ、そこに手持ちの不安定なカメラによって撮影された女性の顔が映っていて、その女性が「アデルは辞退した」と言っているだけのごくごく短い映像が延々とループして反復しているだけのもの。ほんのワン・フレーズだけの言葉が、人を苛立たせずには居られないような息せき切ったよう声とリズムで(言葉を発する前には多少の間があるのだが、フレーズが終わるか終わらないかのところで暴力的にブツッと断ち切られ、また最初に戻る)ブツ切りにされて、延々反復している。この女性によって発せられているフレーズが一体どのような意味の含みをもっているのかは、全く何も説明されてないので分りようがない。文脈から切り離された、ただひとつのフレーズと、何の理由もなく任意に取り出されたとしか思えない映像の切れ端が、嫌というほど(というか、徹底しクールに機械的に)繰り返されている。この、人の神経を逆撫でせずにはいないような徹底して単純な反復は、ミニマルという手法が当初もっていた暴力的な強さを露にしているよう感じた。世界を支配している、非人間的なリズムの反復。(初期ライヒの、テープ編集による作品の暴力的な感触を思わせる。)
●アレクサンドラ・ラナーの作品。密閉された箱の一つの面がガラス張りになっていて、その内部が部屋のようにしつらえてあるのが見える。見えはするのだが、その箱は完全に閉じているので、観客はそれを外から見ることしか出来ない。それは部屋と言っても、二つのソファーと排気孔のようなもの、そして窓があるだけだ。そこに人はいない。勿論その窓も外へと開いているのではなくて、二つに仕切られた箱の内部の奥の側が、窓から覗いているに過ぎない。そこからはそれがまるで外へと通じているかのように電柱と電線が見えるのだが、当然それは何処へも繋がってはいない。他の作品が積極的に外と関わろうとし、外の空間へと拡張してゆこうとしているのに対して、この作品は完璧に閉じていて、内側にしか向かっていない、というところが、少しだけ気になったのだ。この作品は、実物大よりもやや小さく、しかし模型というにはやや大きいというサイズで、そのことがまた一層「閉じた」感じ、周りとの関係を切断された感じを際立たせている。(これはちょっと、「村上春樹」的、と言えなくもないのだけど。)
●ビデオ・インスタレーションの作品では、ヤン・フードンのものと、ハム・キュンのものが印象に残った。ヤン・フードンの作品はインスタレーションと言ってもその空間の内部に観客が入り込むようなものではなくて、映像の正面性と言うか、作品を観る観客の視線の等方向性が保たれていて、その前提を保持したなかで、複数の映像への視線の拡散がなされることになる。入り口から入ると正面の壁に、4台のプロジェクターによる4つの異なる映像が投影されている。その4つの映像はどれも、物語的な展開というのはほとんどみられないのだが、時間とともにゆっくりと相互に浸透してゆくという展開をみせる。その4つの大きな映像の他に、左右に振り分けられた沢山の小さなモニターによって、幾つもの異なる映像が提示されている。(小さな画面の映像にはほとんど時間的な展開がないので、それらを空間的に把握できる。)この作品の内容と言うかテーマは、独自の感触をもったエロティックな妄想による映像の組合わせなのだけど、面白いのはその内容ではなくて、映像の「時間性」や「正面性」、現実空間との「相容れなさ」、を尊重しつつも、展示という空間的な形式による「視線の拡散性」や「視点の多数性」を成立させていると言う、上映と展示の折衷案のような妙な「形式」にあるのだ。
ハム・キュンの作品は、展示やインスタレーションと言うよりも、個人的な上映という形をとっていると言ってよいだろう。「チェイシング・イエロー」と題されたその作品は、アジアの各都市でたまたま見つけた「黄色い服を着た人」を追跡して作った複数のドキュメンタリーが、会場に置かれている8台のテレビ・モニターに映しだされていて、観客はそれぞれのモニターの前に座って、テレビ番組を観るのと同じように、それを観ることになる。各都市でたまたま偶然に(黄色い服を着ていたというだけで)抽出された人を追ってゆく、という試みも面白いと思うし、それが同時に8台ものモニターに映し出されている、という状況も面白いし、しかし観客はそれを「美術作品」のように一挙に(一遍に)観ることは出来ず、たまたま座ったその前にあるモニターに映されるものを観るしかないのだし、全てを観ようとすれば、8倍の時間をかけてひとつひとつに丁寧にアクセスしていかなければならない、という設定も面白いと思う。ハム・キュンが、アートの拠り所を「図書館」と「実験室」にもとめている、というのも興味深い話だと思う。世界という膨大な情報の蓄積のなかから、ある任意のキーワード(黄色い服)によって検索し、たまたま抽出された断片的な細部を組み合わせてみる実験室としてのアート。東浩紀の言う「データベース=インターフェイス的な世界観」の、非オタク的、非スーパーフラット的な実践と言ったらいいのか。
●横浜トリエンナーレ全体を眺めてみても、「質」的に評価できるような作品はそんなにある訳ではない。では、この展覧会自体がつまらないかと言えばそんなことはなくて、これだけ数多く、これだけ多様なアーティストたちの作品が集まっていれば、その混乱も含めた多様性によって、とても面白く、かつリアルであるとさえ言えるだろう。しかしそのように言ってしまう時、個々の作品や作家の「質的な評価」というのは二の次、三の次というか、もっと言えば「どうでもいい」ということになってしまう。質など問題ではない、できるだけ多様なものをある一定以上の数あつめれば、それはそれなりに世界のリアルを映す鏡になるだろう。個々の作品や作家をどうこう言うなんてもう古クサイ、と。ポストモダンの行き着く果てのような現代において、「美術」なんかそういうものとしての価値しかないでしょう、そういうものとして生き残っているだけでしょう、ということになってしまう。
観客なり、批評家なりキュレーターなり誰でもいいのだが、作品にふれる個々の人たちが、各々の作品や作家に対する「質的な判断」というものを放棄してしまえば、混沌はたしかにリアルだしスリリングであるとも言えるだろう。「質的な判断」などというものはもともと、主観的な趣味や曖昧な基準、目利きと「されている」人の評価などに頼った、多分にいい加減な、ヤマカンみたいなものでしかない、と言うのも、まあ確かにその通りではあるだろう。しかしだからこそ、間違ってしまうかもしれないというリスクを背負いながらも、何とかかんとか手持ちのカードをフル可動させて、個々の場面で「質的な判断」を下す、という必要があるのではないだろうか。質的な判断などどうでもいい、面白くて、楽しくて、あるいはリアルであればそれで良いではないか、というのも確かにアリだとは思うが、しかしその時失われてしまうのは「個人の責任」というヤツなのではないたろうか。そんな「個人の責任」なんて微力なものが、一体この世界に何をもたらすと言うのか、そんな無駄なものサッサと捨てた方が解放されるのではないか、という思いもあるにはある。しかしそれでも、個人の責任においてなされる、それぞれの作品や作家に対する「質的な判断」は必要とされるのではないかと感じている。正直言って、横浜トリエンナーレは予想していたよりもずっと「面白かった」のだけど、この「面白さ」を素直に肯定する訳にはいかない、という思いがあるのも動かし難い事実なのだった。