●空白の3日間は、弟の結婚式に主席するために実家に帰っていた。10日、ちょうど帰り道の途中に位置しているので、寄り道して横浜トリエンナーレを観た。寄り道とはいっても、そのために朝早く起きて、開始早々の午前10時頃から、午後4時過ぎまで、たっぷりと6時間以上立ちっぱなし、歩きっぱなしで、メインの赤レンガとパシィフィコの両会場をひととおりまわることが出来た。なにより驚いたのは人の多さで、印象派の展覧会でもないのに、美術関係のイヴェントでこんなに人が沢山いるのを初めて見た。現代美術の作品というのはだいたい、一つのブースにせいぜい5、6人がポツンポツンといる、という状態を想定してつくられている場合が多いと思うのだが、こんなに人が多いと「作品を観る」のではなく「作品を観ている観客を見る」と言う感じになってしまう。それはそれで面白くはあるのだが。
●まずは定石通りに悪口から。ここにある「作品」の多くが作品ではない。そこには作品があるのではなく、ただ演出(それも相当質の低い演出)が、プレゼンテーションの技法があるだけだ。ここには空間や意味の、生成とか分裂とかいった出来事は起っていなくて、ただあらかじめ用意されているコンセプトが、ある種の雰囲気とともに提出されているに過ぎない。多くの作家が稚拙な「空間プロデューサー」であるか、あるいはひねくれた「インテリア・デコーディネーター」であって「美術作家」ではない。そのことが最もはっきりと露呈されているのが、映像を使用したインスタレーションの数々だろう。一体これらの作品たちが、何故「展示」されなければならないのか分らない。ある一定の時間の幅をもった映像が使用されるのならば、そこに生起する説話的な持続が問題になるのならば、それは上映、あるいは上演されるべきなのではないのか。何かしらの「意味ありげ」な映像を、現代美術っぽい手法で加工すれば、それで何となく格好がつくからOKでしょうみたいな、安易な風潮が蔓延しすぎている。始めがあって終りがあり、途中に段階的な変化のある映像が、ある空間の一部として組み込まれて展示される時、任意のある時点でそれにアクセスして、また任意のある時にそこを離れる観客がそれを「観る」時間と、その映像がひとつの意味を提出する「時間」とは、そう簡単に一致するはずはなく、常にズレが生じてしまうのだが、そのズレをどうするのかという思考がほとんどなされているようには思えない。(現代美術を多く観ている人なら、「作法」として暗黙のうちにズレを調整するかもしれないが。)そのズレを何らかの技術によって回収するにしろ、ズレを作品の面白さとして見せるにしろ、あるいはもっと突っ込んで、そのようなズレによって、「今ここ」に縛られている「展示」という形式への批判にまでもってゆくにせよ、何かしら、作品の「形式」に対する思考が必要なはずなのだ。(そうでなければ「内容」にまで入り込めない。)一般にビデオ・インスタレーションをする作家の多くが、映像=イメージのもつ、現実の空間や時間との相容れなさ、と言うか、両立し難さというものに、あまりに無頓着に過ぎるように思う。例えば、ボナールやマティスが、窓の外に拡がる風景と室内の風景とを、同一の画面のなかに分裂したままで両立させるために、どれだけ様々な工夫を施し、どれだけ繊細な技術的配慮を払っているのかということを、もっときちんと考えるべきではないだろうか。(こういうことを書くと、古典的だとか審美的だとか言われるかもしれないけど、ハイテクだろうがローテクだろうが。このようなデリケートな操作なしに「作品」があり得るとは思えないのだ。)
たんに「現代美術」っぽい雰囲気に演出されたに過ぎないものは、現代美術などとは無関係の観客によって簡単に崩されてしまう。特に赤レンガ会場の作品の多くがそうだったのだけど、大勢の人々が溢れ、団体旅行の客みたいなおじちゃんおばちゃんががさつな足取りでドタドタと歩き回り、子供が奇声を発して走り抜けるような場所では、そのような作品は何も語らなくなっしまう。
●では、しっかりとした物質によってがっしりと構築されていれば、それは「作品」と言えるのかといえば、そういう訳でもない。例えば、ジミー・ダーハムによる、事務所のような空間が大量のセメントで埋もれているような作品があった。これはたしかにセメントのもつ圧倒的な物質の迫力によって観る者を驚かせはする。しかしそれだけだ。セメントという物質のあまりに一元的な使用があるだけ、物質に全面的に依存した表現があるだけだ。(ふと、楳図かずおの傑作『漂流教室』や、『神の左手、悪魔の右手』の最初のエピソードなどを思い出すが、それらとは全く比べるまでもない。しかも、最初に真っ黒い部屋に通されて、そこを抜けるとセメントの部屋がある、という安っぽい演出が施されていたりするのでなおさら興醒めだ。)塩田千春の作品は、ダーハムとくらべれば格段に質の高いものだと言えるだろう。泥まみれでどっしりと重たそうに垂れ下がっている巨大なドレスは、様々な抑圧や偏見や過剰な意味をどっぷりと重たく染み込まされた「女性の身体」のもつであろう何とも言えない「重ったるさ」についての(メタファーというような言い方はあまりに安易に使われ過ぎるのでどうかと思うのだが、それでも)暗喩的な喚起力に満ちている。しかしそれでも、この作品における物質は、あまりに一方的に「意味」に支配されてしまっているように感じられる。もし、様々な可能性へと開かれているはずである女性の身体が、男性の(社会的な)視線によって抑圧され圧殺されてしまっているとしたら、それと同じように、この作品における物質も、この作品の意味によって圧殺されてしまっているように見えてしまうのだ。
●それなら、「作品」とは一体どこにあるのか。作品はおそらく、いつ、どこにあるとは明確には指させない時間・空間に生起するのだと思う。例えば折元立身の作品。ぼくは折元氏の作品はそんなに高くは評価しないのだけど、それでもここには作品を作品たらしめているふしぎさが確実にあるように感じた。折元氏の、「耳をひっぱる」シリーズや「パン人間」のシリーズにおいて、「作品そのもの」はどこにあるのか、と考えてみる。この会場に展示してある写真が作品なのかと言えば、それは違うだろう。折元氏は「写真」による作品を作っている訳ではない。これらの写真は行為の記録であり、その報告である。ならば、世界各国の様々な場所で行われている、「行為」そのものが作品なのか。しかしそれは作品と言うよりは折元氏の生活そのものであり、人生でもあると言うべきだろう。(実際に見たことはないが、おそらく折元氏のパフォーマンスはたんに退屈なものなのだと思う。ぼくは、生活そのものがアートなのだ、というような言い方を信用しない。)ならば、「コンセプト」こそが作品なのだ、と言えるろうか。しかしここでのコンセプトは、ちょっとした思いつきのようなものであって、それだけで面白いと言える程のものではない。それは実践され、持続されなければ意味がないし、発表されなければ作品たりえない。で、「作品」がどこにあるのかと言えば、それらのものたちの間の、どことは名指せないような場所に、幻のように立ち現れるものが作品なのだ、と言うしかないと思う。一枚一枚の写真が撮られたその現場での、成立したりしなかったりするそれぞれの相手との関係は、そのひとつひとつがかけがえのない重要な事柄なのだろうけど、それは我々の生活においても、他者に対する働きかけのひとつひとつが重要であることと変わりがない。ここで重要なのは、いくつかのコンセプトによって仕掛けられた「他者へと働きかける技法」が粘り強く持続して実践されていて、そのひとつひとつが写真によって丁寧に記録され、その多数の写真が一挙に展示された時、その一挙に見渡せる様々な時空の目眩がするような多数性によって、かえってひとつひとつの現場でのかけがえのなさが事後性として浮かびあがり、そこから再び、そのようなかけがえのないひとつひとつが無数に積み重ねられていることに思い至り、そこに発生する「かけがえのないものの無数の積み重なり」という出来事にくらくらさせられる、というところにあると思うのだ。
●美術作品として評価できる「質」をもっているかどうかはとりあえず置いておくとして、単純に楽しめる作品なら、いくつもあった。楽しめる作品というのは、すくなくとも「楽しい」というこに関しては肯定されるべきだとは思う。例えばヨーン・ボックによる天井裏を覗くような作品。これは覗くという行為が楽しいというだけでなく、覗いている人を見ているのも楽しい。マリーナ・ブラモヴィッチによる、磁石の靴で鉄板の上を歩く作品。草間弥生(室内)や秋元きつねによる遊園地のアトラクションのような作品が「美術」と言えるのかどうかは分らないが、楽しいことは楽しい。赤瀬川原平だって、楽しいことは楽しい。
嫌いではあるけど、会田誠の作品は「笑える」という意味でなら楽しいと言える。(嫌いでも、「笑え」れば許せるのだ。)ミキサーのなかに無数の裸の女性が詰め込まれている有名な絵画作品は、いわゆるオタク的な欲望を分り易く示していると言えるのだが、その作品の両側に、一方には一人暮らしの掃除もしていない散らかった下宿の畳をそのままタールで固めたような汚い作品が置かれ、もう一方には何の変哲もない住宅地の上空に、不穏な妄想が渦巻いたり花火のように炸裂したりしている様を描いた絵が配置されていて、しかもブースに入ってすぐのところには、さりげなくコンビニ弁当の空き箱(そのペラペラの質感が何とも情けなくていいのだ)が展示されているという、何と言うのか「ゆる~い絶望」のようなものが支配している部屋の中心に、「自殺未遂装置」が置かれていて、テレビ・モニターからは、その使用説明書とも言える、意図的に情けなく制作された映像が流れている。ゆるーい絶望に満たされているゆるーい主体が、何度も何度も自殺を試みるのだが永遠に失敗しつづけるしかない、という何とも「ゆる~いジジフォス的装置」が構築されている。ポストモダン的、オタク的な主体が、まるで来るべき革命的な存在でもあるかのように無邪気に誇らし気に提示されているだけの、全く白痴的な作品にくらべれば、それが実は「ゆるーい絶望」「ゆるーい鬱」のようなものに浸されているのだという事実をやや自虐的に提示しているこの作品ははるかに理知的だと言えるだろう。しかし、この程度の「ゆるーい絶望」や「自虐」と「ゆるーく」戯れることで満足してしまっているような態度は、ぼくには共有することはできないものだ。中原昌也的な破壊力もないし。(余談だが、この「自殺未遂装置」は、会田氏の芸大卒業制作作品である「死んでも命のある薬」が発展した形だと言えるだろう。)
(つづく。)