●京橋の映画美学校第二試写室で、ツァイ・ミンリャン『楽日』。なんとも微妙な映画で、最後まで一応退屈せずには観られるという意味で、まったくつまらない映画ではないけど、では、どこか積極的に面白いと思えるところがあるかと言えば、それはない。っていうことは、つまり「つまらない」ということなのだが。この映画が、一応最後まで退屈せずに観られるのはひとえに、舞台となった古い映画館の建物のオーラのようなものに依っている。ツァイ・ミンリャンは、昔のヴェンダースの映画とかは、好きではないのだろうか。消えつつある、古い映画(的環境)へのノスタルジーみたいな題材で映画をつくる時、ヴェンダースを参照していれば、もう少しは気の効いたものになったのではないかと思う。(例えば、昔のスターの登場のさせ方などあまりにベタで工夫がなさすぎる。)
古い建物のたたずまいや、その空気、そこに過去から流れる時間の厚みようなものを、特にこれといった派手な事件やエピソードを用いずに、具体的な描写を通して、ゆったりとしたリズムで(その時間・空間そのものの感触を)描こうとする時に、やってはいけないことは、そこに(何か謎があるかのような)「思わせぶり」な雰囲気を与えてしまうことで、そういう雰囲気が与えられてしまうと、どうしても、その謎めいた感じの方が強く前面に出てしまい、そうなると、ゆったりと流れる時間や描写の具体性が、たんに謎の解決(というか説明)を遅延させるために「引っ張っている」ようにしか感じられなくなってしまう。例えば、映画館がゲイたちの出会いの場になっているということの描写があまりに「思わせぶり」に匂わされるばかりなので、そこに何か過剰に意味ありげな(怪しげな)雰囲気が漂ってしまって、彼らのとる一つ一つの行為の描写の滑稽な面白さよりも、「思わせぶり」の方が強くなってしまう。あるいは、受付の足の悪い女性による上映技師の男性への「思い」も、最後まで「ほのめかす」程度に押さえられているので、そこにも過剰な「思わせぶり」が付着してしまう。(まあ、この「思わせぶり」が好きな人もいるのだろうけど、ぼくには鬱陶しい。)
この映画を観ると、『廃校綺譚』や『花子さん』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/kurosawa.html#Anchor7312176)を撮った黒沢清が、古い建物全体に刻み込まれた過去の時間の厚みを捉えようとする時に、いかにクレバーであったかということがよく分かる。この映画では、閉鎖する映画館の最終日における交わる事のない三つの流れ(上映されている映画作品を含めれば、四つの流れというべきか)が描かれているのだけど、(もはや廃墟に近い建物のなかで、ほとんど幽霊と同化したような人たちによる)そのそれぞれの流れが、混じり合う事のない(次元が異なる)ままで交錯する感じを、黒沢清の短編くらいに工夫して描くことが出来れば、もしかすると面白い映画になったかもしれないと思う。というか、それをしなければ面白くなりようがない題材ではないだろうか。
なんというか、やっていることの一つ一つは決してつまらなくはないと思うのだけど、それがどれもいまひとつ中途半端で、「映画」になりそうな複数の要素をその都度適当に組み合わせているだけにみえてしまって、映画全体としてツァイ・ミンリャンが何がやりたかったのかがよく分からないものになってしまっていると思った。