文房堂ギャラリーで『流れとよどみ』(富田瑞穂・中川絵梨・馬場健太郎・堀由樹子)

●神田の文房堂ギャラリーで『流れとよどみ』(富田瑞穂・中川絵梨・馬場健太郎・堀由樹子)。何かを考える時に、すぐにそれの「起源」に遡って考えてしまうのは、今現在、それがそのようにしてそこにある、ということの複雑さ(や必然性)を見ないで単純化してしまうことなので、悪しき思考パターンのひとつだとは思うのだが、しかしそれでも、堀由樹子の絵画作品を観ていると、どうしても絵を描くこと、そして観ることの、原初的な「楽しさ」のようなもののことを思ってしまう。陳腐な例しか思いつかなくて恥ずかしいのだけど、どこかで聞き憶えた好きなメロディが、気分の良い時などにふと口をついて出てしまうように、目の前にある自分を魅了するものの姿が、ふと自分の身体に乗り移ってしまったかのように手を動かして、そのイメージを紙に定着させてしまうような瞬間、あるいは、ただ、紙の上にクレヨンをはしらせている時の、その手の運動やクレヨンと紙の間に起こる摩擦の感覚、クレヨンが粘りながら紙へと引っ着いてゆくのを手が感じているその感覚の歓びに満たされているような瞬間、そのような瞬間の憶えがあるかないかが、その人が「絵描き」であるかどうかを決定する。(なにも「絵描き」がエラいと言っている訳ではない。念のため。)勿論、美術というのは高度に知的な営みでもあって、そのように単純に「幼児的」な感覚の歓びだけで出来ている訳ではない。しかし、後にそれを抑制したり禁欲したりするにせよ、もともとそのような感覚の歓びを知らない人と知っている人とでは、まるで違ってくる。最近の堀由樹子の作品(今回展示されているもの特に)は、そのような感覚の歓びを、ここまでやるかなあ、と思うくらいに大胆に解放してしまっている。堀由樹子はもはや、自分の作品が「現代絵画」に見えなくても、時に古臭い絵のように見えてしまっても、それはそれで一向に構わないとでも言うような大胆さで、「絵を描く」ということの本質的な意味を探り出そうとしているように思える。それは、モダニズム美術の行き詰まりを突破するためと称して、戦略的にマーケティングを導入すること(例えば村上隆)や、洗練された「媚び」という芸を身につけること(例えば奈良美智)などとは全く違った、堂々とした正面突破を目指すものだと思う。実際の堀由樹子の作品は、「正面突破」などという仰々しい言葉にはまるで似つかわしくない、芳醇で伸び伸びとした楽しさに満ちているのだが。

(余談だけど、その優れた「戦略(マーケティング)性」とオヤジ的な「上昇指向」の強さという意味で、村上隆村上龍みたいだし、一見優し気でその裏に冷たい暴力への嗜好を含んでいるような「独善的」な感じと、美学的な日本、美しい日本の私への居直りという意味で、奈良美智村上春樹に似ている。もっとも、村上隆村上龍よりも優秀だと思うけど。)

●堀さんの描く「猫」の絵はとてもいいのだけど、実は堀さんは猫好きではなくて、猫が嫌いらしい。嫌いだけどちらちらと目についてしまうから描いてしまうと言うことだ。でも、それって好きってことじゃないだろうか。