椹木野衣/村上隆とモダニズムへの通路

ユリイカ』10月号の椹木野衣の文章をパラパラ見返しながら、ぼくは何故椹木氏の書くものに対して、こんなに感情的に反発してしまうのだろうか(かなり鋭いことも言ってるのに)と考えてみたのだけど、それは多分、椹木氏には、「モダニズム」への通路がないからなのではないかと思った。椹木氏は確かに、現代の世界のアートシーンには非常に通じているだろうし、異種混合のサブカルシーンにも詳しいだろう。ことにロックに関する知見には並々ならぬものがあるみたいだ。でも椹木氏は、美術の(狭義の)モダニズムには一切感心をもたない。恐らく椹木氏は、クールベやマネ、モネ、セザンヌマティスといった画家たちに、一度でも心を動かされたことなどないのだろう。もしそうならば、つまりセザンヌマティスも既に過去の「古典的な巨匠」に過ぎず、現在では何のリアリティーもないのだとするならば、村上隆でも奈良美智でもできやよいでもクリス・カニングハムでもOKということになるのは当然だろうし、椹木氏が目指す「更新された新しいアート」が、「読売アンパン」的なアノニマスなものだというのもうなずける。そして、事実世界のアートシーンは、そのように動いてもいるだろう。

しかし、19世紀後半に集中して現れた偉大な画家たちの作品に、一度でもヤラレてしまった者は、そう簡単にはいかないのだ。(いや、19世紀に限らず、美術史上の「偉大な芸術家」に魅了されたことのある者は、と言い換えるべきか。)偉大なものに魅了されるというのは、つまりそれによって「抑圧」を受けるということなのだ。そのような「抑圧」などまるでなかったように、それを簡単に解消させてしまうのならば、ハイアートとサブカルチャーとの境界など実は虚構のものに過ぎず、今や異種交配で凄いことになっているのだ、という言説を簡単に受け入れることができるのだろう。勿論、その言葉は決して間違ってはいない。現代に生きていて作品をつくる以上、それは不可避であるだろう。そのような意味で、例えば村上隆氏の仕事はなかなか立派なものだし、一定の尊敬や敬意が払われなければならないとも思う。でも、もし「美術作品」というものから、ぼくがセザンヌから得たような「経験」を得ることが出来なくなってしまうとしたら、そんな「美術」に参加している意味などなくなってしまう。なにもセザンヌのような絵を描くべきだ、と言っている訳ではない。なにしろ、ぼくはセザンヌではないのだし、セザンヌ以外は誰もセザンヌではないのだから。そうではなくて、どんな作品を作るにせよ、作品が結果としてどんなに解体されたものになろうと(セザンヌ自体が既に解体されちゃってるけど。)、セザンヌを観たという「経験」を決して忘れない、と言うか、なかったことにしない、ということは重要なのではないか。(ある程度「美術史」を背負わざるを得ない、と言うこと。そしてその上で、できればそれを突き抜けて行かなければならないのだけど。でも、「世界」は「日本人」にそんなことを全く求めてはいないよ、とは、よく言われる事なのだが。)お前はそんなことを言うけど、例えば村上隆だって、「『宇宙戦艦ヤマト』を観たことを決して忘れない」とか言うはずだ、ということはあるかもしれない。しかしその時は、反感をかうことを承知で、『宇宙戦艦ヤマト』とセザンヌとは根本的に違うのだ、と断言しなければならないだろう。たとえそれが虚構に過ぎないとしても。ぼく自身が、『宇宙戦艦ヤマト』から少なからず影響を受けているのだとしても。(ぼくには、「スーパーフラット」というコンセプトは、アニメやサブカル的な文脈で考えられるより、セザンヌマティスとの関連で考えられた方が、より刺激的で、創造的だと思える。)