芸術の自律性/モダニズム/物自体

95年に出た『批評空間』の別冊「モダニズムのハード・コア」の冒頭に載っている座談会に、現代の美術の状況を的確に現した発言があったので引用する。例によって岡崎乾二郎の発言。

《つまり内容規定のないことが芸術の自由だということで、その証明のためにキッチュを含め、あらゆる文化現象を参照しようって具合に、ただ中味だけをコロコロ替えつづる羽目になり、中心にあるのはたかだか「芸術は、何でもありの空虚な枠組みである」っていう単純な思い込みにすぎないわけで、その枠組みである形式は問われずに固定したままだから、かえってリファーした内容に規定される羽目になり、ついには、ただ天皇に触れたといっただけで話題になるという状況になる。つまり美術固有の形式って言っても、単にプレゼンテーションの技術だったってことで、こうして駄目になっちゃうわけですよ。》

これは94年になされた座談会なので、《ただ天皇に触れたといっただけで話題になる》と批判されているのは柳幸典のことなのだが、例えば現在の村上隆などは、「天皇制について大して考えてもいないし、ろくに知りもしないのに、何となくインパクトがありそうだからそれを主題としてしまう」というような愚は犯さずに、「日本」をウリにするためにもっと有効な「オタク的なもの」を主題としているし、プレゼンテーションの技術という意味でも格段に洗練されている訳なのだが、それにしても基本的には何もかわっていないと言える。

それに対してグリーンバーグは、「芸術の自律性」を主張する。このことについて、柄谷行人がカントに絡めて、とても重要な発言をする。

《さきほどの芸術領域の確定の問題ですが、カントの場合、一方は科学、もう一方は道徳に対してそれを考えていたんですね。そのどちらでもない領域に美的判断力を置いている。その後、科学というのが社会科学を含むようになり、道徳というのが社会正義の問題になった。つまり、いわゆるマルクス主義という形で影響力をもったのは、実は科学と道徳だとぼくは思うんです。そのなかであらためて芸術の領域を確定しなければならなかったわけですね。グリーンバーグが言っているのは(...)芸術の領域を確定しようとしたわけでしょう。それに対して、いま言われた最近のPCは、いわば道徳の優位なんですよ。それに対して、芸術の自律性を言う人はいないんですか。》

美的な領域が、あらかじめ存在しているという訳ではなくて、一方に科学があり、もう一方に道徳があって、そのどちらにも解消し切れない残余を示し得た時だけ、美的な領域が発生する。(さらに柄谷的な補足を加えれば、その時にも、科学や道徳は決して無効になる訳ではなく、たんに括弧にくくられる。)モダニズムの芸術というのは、このような領域においてしかあり得ない。それはいわば「マルクス主義」のようなものとの緊張関係によって成り立っていたとも言える。しかしマルクス主義に力がなくなってしまうと、そこには一方で「科学」の代用としての資本主義的な市場の論理があり、もう一方でPCやカル・スタというような社会正義としての「道徳」の領域があり、美術はそのどちらかに完全に回収されてしまったかのようだ。(例えば村上隆の作品にみられる「オタク的なもの」は、一方で「日本」というマイナーな場所に固有のアイデンティティーを代表するものとして認知され、他方で資本主義的な良く出来た商品として流通するのだが、それ以外に、プレゼンテーションの技術的洗練という他に、あるいは幼稚な欲望の垂れ流しという他に、何があるのだろうか。)柄谷の《それに対して、芸術の自律性を言う人はいないんですか。》という問いに、岡崎は《たまには言いたいんですけどね(笑)》、浅田彰は《グリーンバーグもジャッドも、言いながら死んでいったわけでしょう(笑)》という力のない答えを返すことしか出来ない。しかしそこでも柄谷は、「物自体」が我々の感覚に「触発を強いる」ということから、ある意味素朴とも言えるような力強さで「芸術的(美的)な領域」を信じているように思える発言をする。岡崎が、芸術の自律性を対象の自律性へとスライドさせることに有効性はないという発言に対しての答え。

《対象は消してもいいけど、カントの場合、われわれを触発するものに対する受動性はどうしても外せない。それで物自体を強調することになるんです。対象なんていうのは主観が構成するんだからどうってことはない。しかし、その元にはやはり受動性があるんだ。純粋悟性あるいは主観の能動性だけではやれないんだ、と。物自体ということを言い続けるのは、その受動性を保証するためで、物自体をとってしまうと、受動性もなくなるんですよ。むしろ、対象と言ってしまうと、受動性が消えるんですね。》

これはグリーンバーグ以降のモダニズム批評に対する痛烈な批判であると同時に、現在でもなお、モダニズム的なものを信じることを可能にしてくれるような、力強い言葉でもあるだろうと思う。