02/03/01

高野文子の『黄色い本』(講談社)の表題作だけ読む。一度に読んでしまうのは何とも勿体無い。高野文子の新作を読めるという機会はホントにたまーにしかないのだけど、その度に高野氏に対する尊敬の念が深くなるばかりだ。ある作品(ここでは『チボー家の人々』)が、それが書かれたのとは全くかけ離れた時代、地域、環境で生活している1人の人間の「生きている時間」と分かち難く結びつき、そのかけがえのない固有の時間のなかに深く刻みつけられ、それと共に生きることが可能となる。それは、人々に感動や夢を与えたいなどと平気で言うような人たちが押し付けがましくバラまいているような、現実から目を背けさせるようなウソや偽りの希望(非日常とかスペクタクルとか言うやつだ)などではなくて、それと共に現実を生き、それを糧として現実と対峙できるような「何か」を与えるようなものであること。この作品は、言ってみれば「作品という媒介」が何故重要であるのかということを、それがある人物の固有な生の時間に対してどのように作用するのか、ということを見事に描き切っている。全く見ず知らずの他者によって作られたものが、ある人物の生活と共に動きだし、その伴侶と成り得ること。作品によって、この世界に存在する何か「貴重なもの」としか言えないようなものにふれることができるということ、そのような作品のもつ「大きな力」が信じるに足りるものであるということ、確信させてくれるのだ。作品というものは、それ自体が他者であり歴史であって、人はどのような形のものであれ「作品」に触れることなしに、自分がうまれる前にも世界は存在していて、そこに無数の人が生きては死んでいったのだということを理解することは出来ないだろうと思う。思いっきり反動的な言い方をすれば、過去に生きていた人たちの「魂」のようなものをほんのヒトカケラでも宿していないとしたら、その「魂」のようなものと我々との交通を可能にしてくれないとしたら、そんなものを「作品」などと呼ぶことは出来ない。つまりは、作品というものは、そのようなことを可能にしてくれるもののことを言うのだ。おそらくは、昭和30年代の地方都市で暮らしていと思われる田家実地子という女子校生の生に流れ込み深く刻み込まれるジャック・チボー。彼女はこの小説によって夢や希望を与えられるという訳ではないし、彼女の生活や意識に大きな変化が見られるという訳でもないだろう。しかしそれでも彼女の生はジャック・チボーと合流して分かち難く結びつく。(それを、たんに文学少女の「幻想」とははっきりと違うものとして明確に描き切っている、と言うか、文学少女の「幻想」のようなものは、そうそう簡単にバカにすべきものなどではない貴重なものであるということを繊細に描き出している、と言うべきか。)作品は、ある固有の時間と別の固有の時間との断絶を超えた接続を可能にし、ある固有の生と別の固有の生とが時空を超えて触れ合うことを可能とする媒介であるだろう。そのような出来事が起こってしまう瞬間を信じられないとしたら、作品に触れたり、ましてや作品をつくろうと試みることには、何の意味もなくなってしまうだろう。作品とは、たんに気晴らしのために消費されるものではないし、自己顕示欲を満足させるための自己表現でもないし、ましてや社会学のための素材などではない。
形式的なことと言うか、表現上のことで重要だと思われる事をちょっと書いてみる。『黄色い本・ジャック・チボーという名の友人』は、物語としては、ただ田家実地子という人物だけを追い掛けている単線的なものなのだが、それぞれのシーンは、いつも複数の動きの合成として組み立てられている。例えば、田家実地子が家にいて本を読んでいるというシーンであっても、そこにはいつも、留ーちゃんと呼ばれる、何か訳があって母親と離れて暮らしている従兄弟の子供がガチャガチャと動いていたりしていて、読者は一つのシーンにおいて一つの意味に(一つの感情に)集中することが出来ないようになっている。主人公の動きや感情の変化などを一本の線として追い掛けようとする読者は、どのシーンにおいても不意をつくようにして介入してくる他者の動きによって集中を乱される。しかも他者は、「物語」の必然を形づくるようにして介入してくるのではなく、いつも不意をつくような「運動」として介入するのだ。決して喧噪を描いている訳ではない、どちらかと言うと物静かに進行してゆくこの物語が、何かガチャガチャとして落ちつかないような感じや、ちょっと読みづらいような感じを与えるのはそのせいだろうと思う。単線的でシンプルな物語を、複線的なシーンの積み重ねとして描いている、と言えばいいだろうか。とても複雑なシーンが幾つも積み重ねられた時に、たまたまどのシーンにも同一の人物(主人公)を発見するということで、そこにシンプルな物語の流れを読者は結果として読み込むことになる。(だからこれは、ロバート・アルトマンなんかがやっているのとは全く逆のことだと言えるかもしれない。)一見シンプルなように見えて、ほとんど舞踏的なとも言える非常に複雑な(非中心的な)動きの合成によって出来ていることで、この作品はとても深い味わいや強い説得力、リアリティーといったものを得ているように思える。このようなとても複雑な作品の構成法を考えると、高野氏が寡作であることにも納得がゆく。